指導者の養成



 国民学校案の実施については種々の問題があるが、中にも重要なのは教員の問題である。すべて制度は人を俟つてその機能を発揮することができる。いくら制度を変へても、その人を得なければ効用は現はれず、却つて弊害を生ずることにさへなるのである。せつかく義務教育年限を延長し、教授内容を改正しても、それに適した教員がゐなけれは無意味である。国民学校案の実施にあたつて、この新しい制度を有効に運用し得る教師は果して十分にゐるのであらうか。
 教員の養成が先決問題である。先づ適格の教員を作つて、しかるのち国民学校案を苦行に移すべきではないか。
 言ひ換へると、師範教育の改善が先立たなければならぬ。そしてこれは経費その他の点からいつても、国民学校案の実施よりも容易であらう。教師が元の儘で新しい制度を行はうとすれば、却つて弊害の起る惧れさへある。殊に新しい学校内容や教授法についてはなほ多くの問題が残されてゐるのであつて、これを仔細に検討する上からいつても師範学校の改革が先決問題であるベき筈である。
 組織と共に人が変らなければならない。これは現にいはゆる新党組織の問題についてよくいはれてゐることであつて、既成政党の人々を寄せ集めて挙国党といふものを作らうとしても、根本的に新しいものは生れてこないで、むしろ弊害の現はれてくる危険が多いといふのと同じ関係にある。
 挙国党は指導者の政党でなけれはならぬであらうが、一般に指導者の養成について我が国では永い間真面目に考へられなかつたのである。大学の如きも指導者の養成について深く考へることなく、サラリーマン養成の機関となり、それが今日の政治の貧困の一つの原因となつてゐるのである。固よりいはゆる政治家や官僚のみが指導者であるのではない。教員の養成を後にして国民学校案を実施しようといふが如きことも、指導者養成に注意を払つてゐない一つの証拠である。
 指導者は国民の間に到る処において作られなければならぬ。単にいはゆる政治家や官僚のみが指導者であるかの如く考へて、国民の間に指導者を作らうとしないのは指導者養成の精神に反することといはねばならぬ。挙国一致の政党組織が提唱されてゐる今日、真の指導者養成について真剣に考ふべきである。


(六月五日)