世界史の一瞬



 欧洲戦争が本格化してくるに従つて、予言が益々活溌になつてきた。イタリアは参戦するか、アメリカは参戦するか。ドイツが勝つか、英仏が勝つか。ヨーロッパ文化の将来は如何になるか、世界の新秩序とは何であるか。これら大小種々の問題について、様々の見透しが述べられてゐる。見透しはこの場合つねに予言的調子を帯びてゐる。
 ヨーロッパ戦争の発展について見透しを得るに努めることは、日本の将来にとつて大切である。見透しは冷静な、客観的なものであつて見透しである。しかるに最近、その見透しと称するものが次第に熱を帯び、主観的となり、余りに性急になりつつあるのが感じられないであらうか。
 嘗てマルクス主義が流行したとき、同じやうな性急な見透し、予言が流行した。資本主義の没落について、世界革命について、それが明日にでも迫つてゐるかの如く、客観的見透しと称する実は主観的希望が予言者的な口調で述べられた。この性急な見透しが、多くの有為な青年を犠牲にしたのである。
 同じやうな性急な見方が支那事変についてもあつた。この事変の世界史的意義とか東亜の新秩序とかが、数ケ月、数年のうちに実現され得るものであるかの如き見透しが一部で行はれたのである。かやうな性急な考へ方が無意味で、危険でさへあることは、事変の現在の段階に至つて最早十分に明瞭になつた筈である。しかるに今またヨーロッパ戦争について同様の見透しと称するものが、嘗てのマルクス主義流行時代におけると同じ性急さをもつて、今度は或る一部の人々の間に盛んに行はれてゐるのは、注意すべきことであらう。
 世界史は急がない、といふのはヘーゲルの言葉である。個人の一生とは違つて、世界史は十分に時間をもつてゐるのであるから、急ぐ必要はないのである。十年、廿年は世界史にとつて一瞬に過ぎない。世界史の時間を個人の一生の時間で量つてはならぬ。
 もとより我々はへーゲル流の歴史観の客観主義的誤謬に陥つてはならないであらう。世界史の時間は個人の一生の時間とは単位を異にするにしても、それはやはり瞬間から瞬間へと歩むのである。「バスに乗り遅れない」やうにすることは大切である。性急な見透しによつて誤らないと共に、あらゆる場合に処し得る国内体制を速かに整へておくことが必要なのである。

 (五月二十二日)