政治の倫理



 経済倫理といふ言葉が一つの新しい流行語となつてゐる。それは今度の地方長官会議などでも現れるほど一般化してきた。尤も言葉が流行してゐるからといつて、実体が確立されてゐるわけでなく、むしろ言葉の流行によつて実体に関する問題が蔽ひ隠されてしまふ危険さへあるのである。
 新経済倫理の確立はたしかに必要である。だが先づその内容について明確な観念が与へられねばならぬ。もしそれが単なる倫理主義を意味するとしたなら、既に従来の精動あたりの成績から見て明かであるやうに、経済倫理論は無力である。新しい経済倫理は経済機構そのものの中にあつて、その改革と結び付いたものでなければならぬ。機構を変へないでおいて観念だけを変へようとしても無駄である。
 言ふまでもなく経済機構には人間が伴つてゐる。従つて人間の観念を変へるといふことは、機構を変へ、その作用を発揮させる上に大切であり、経済倫理の強調される所以もそこにあるであらう。
 だが人間についていへば、人間を動かすものは経済であるよりも政治である。人を動かさなければ物も動かないといふことは最近の経済事情において益々明瞭になつてきたことであるが、その人を動かすことができないのは政治がないからである。今日の情勢は物の動員とともに人の動員を必要としてゐる。しかもそれは単に経済的力としての人間を動かすことでなく、政治的力としての人間を動かすことである。国民を政治的力として動かさなければ国民を経済的力として動かすこともできないといふことは、既に今日までの経験において十分に実証されてきたことである。
 統制経済は少くとも現在の段階においては政治が経済に対して指導的であるといふことを意味してゐる。もし政治に指導力がないなら、経済倫理といつてみても人間を倫理的に動かすことはできない。経済の倫理は政治の倫理によつて裏打ちされることを要求するのである。
 もちろん経済倫理は大切である。しかし国民に向つて経済倫理を説くことによつて、政治の責任者が政治の倫理を忘れるやうなことがあつてばならぬ。経済倫理といふ言葉は政治の責任を他に転嫁するために作り出されたものではなからう。政治倫理が定まつて経済倫理も定まる。国民には経済倫理のみが問題であつて、政治倫理は無関係であるなどといふ間違つた考へがあるべきではない。


(五月八日)