指導者の反省
事変の初めの頃支那から戻つて来た人々が国民に緊張が足りないといつて憤慨することが多かつた。これに対して、それは寧ろ日本に余裕がある証拠だといつて弁護する者も少くなかつたのである。
ところで、最近私は支那から帰つて日本の土を踏んだ途端、私自身やはり、もつと国民が緊張しなけれはならぬと強く感じた。日本はこれでよいのかといふ気持が起るのを、私は禁じ得なかつたのである。
去年あたりは、田舎の人が都会を見てその風潮を慨歎してゐたやうであつた。しかるにこの頃では、逆に都会の者が見物に歩き廻る田舎の人に対して非難の眼を向けるといふ有様である。もちろん私は、慰安や享楽をあながち攻撃するものではない。それは活動の元気を養ふために或る程度必要なことである。根本の問題は国民の気力如何である。
温泉場などの話を聞くと、事変の起つた最初の年は客が非常に少なかつたさうであるが、第二年目、第三年目と次第に殖えて、昨今では全く悲鳴をあげるほどの景気だといふことである。いはゆるインフレもさることながら、国民の緊張が次第に弛緩していつたと思はれるふしも多いのである。
恐ろしいのは国民の無気力である。事変以来外面的には態勢は漸次整つてきたやうであるが、その反面気力の衰へが感ぜられないであらうか。
革新はつねにいはれてきたにしても、それも要するに立身出世の方便に過ぎなかつたのではないか。愛国心でさへ内にこもつた真の情熱でなく、ただ他人に見せるためのものとなつてゐたといふことがないか。今日の状態を考へるとき、国民性そのものが問題であることを深く感じるのである。国民性の改造が最も根本的な問題であるやうに思ふ。
ところで今日の状態は何に由来するのであるか。その原因は速く従来の指導者の長い間の思想方針が不十分であつたことに基くのである。その思想方針を根本的に転換して新しく出直さなければ、この状態を改善することはできない。しかるに実際においては、今日国民を非難する者の多くは却つてただ従来の思想方針を押し進めることしか考へてゐないのではなからうか。指導者が真に己れを空しくして国民心理の現実を直視しつつ、深く反省しなけれはならぬ秋である。
(四月二十四日)