事実の宣伝
宣伝には事実の宣伝と思想の宣伝とが区別されるであらう。この二つの種類の宣伝があらゆる場合に相俟つて、宣伝はその力を発揮し得るのである。ところでこれまで支那に対する日本の宣伝は、主として思想の宣伝に力が注がれてゐたやうである。しかるに支那に新中央政府が出来た今後において、特に必要なのは事実の宣伝ではないかと思ふ。もちろん事実の宣伝は思想の宣伝を伴ふことによつて愈々効果的となるのである。
事実の宣伝には、言ふまでもなく、宣伝の基礎となり得るやうな事実が先づ作られねばならぬ。それはその本質上、思想の宣伝のやうに抽象的でなく、具体的であることを要求されてゐる。それは眼に見ることのできる実証的事実に関してゐる。しかしながら、もし宣伝されるやうな事実が全面的に出来上つてゐるとすれば、もはや事実の宣伝は不必要になる道理であるから、それが必要であるといふことは、そのやうな事実が未だ全般的には存在しないといふこと、また存在し得ないやうな事情にあるといふこと、を意味するのである。従つて事実の宣伝にとつて必要なことは、先づ典型的な事実がいはば象徴的に作られるといふことであらう。言ひ換へると、例えば模範地区といふやうなものが作られて、その地域内において先づ理想的な事実の形の示されることが必要なのである。
事実の宣伝が必要であるからといつて、その事実を一時に全面的に作り上げようとすれば却つて失敗に終るであらう。なぜなら事実の宣伝が必要であるといふことは既に言つた如く、その事実が未だ全般的には存在し得ないやうな事情にあるといふことを意味するのであるから。かやうにして事実の宣伝にとつて肝要なことは、限りある力を分散することなく一局部に集中して、模範的な事実を先づいはば象徴的に作り上げるといふことである。この点において事実の宣伝は、思想の宣伝がつねに全面的でなければならぬのと異つてゐるであらう。
国内における宣伝についても全く同じであつて、そこには思想の宣伝と共に事実の宣伝が大切である。そしてこの場合にも従来思想の宣伝に偏してゐたのに対して、今や事実の宣伝に力が注がれねばならず、そのためには国内改革の模範的な事実が先づいはは象徴的に大衆の眼の前に示されなければならないのである。
(四月十七日)