検閲の責任
この頃検閲の問題が著述家や出版業者の新たな関心となつてゐる。従来公刊されてきた書物が時勢の変化によつて発禁になり、そのうへ著者が罪に問はれるといふことは過去にも例があるが、最近また同様の追及を受けてゐる者がある。ところが更に議会における問答に依つて、右翼的思想家として知られる某氏にも、目下類似の問題のあることが明かになつた。
私はその人々の歴史観に必ずしも賛成するものではない。また私は研究の発表に無制限の自由があるなどと考へるものではない。そして何人も自分の意見を公にする以上、その社会的影響に対して責任を負ふべきことは当然である。
尤も国民が健全な常識を持つてをれは、どんな思想でも、とりわけそれが以前全く違つた社会情勢下において書かれたことを考へるとき、国民の判断はそれによつて迷はされることはないであらう。そして私は日本国民がそのやうな健全な常識を持つてゐるものと信じてゐる。
しかし多数の人間のうちには批判力のない者もあり得るとすれば、従来発行を許されてゐた書物が時勢の変化に伴つて禁止されることは当然であらうが、処分は発禁だけで足りるのではないかと思はれる。そのうへ著者や発行人の罪を問ふといふことは酷に過ぎはしないであらうか。
もし彼らの責任を追及しなければならぬといふのであれば、従来その発行を許可してきた検閲当局の責任もまた同じやうに追及されねばならぬことになりはしないか。著述家や出版業者を追及しながら官吏の責任は全く不問に付するのは片手落ではないか。法は公平であるべきであり、公平であつて権威があるのである。のみならずそれによつて、有為の学者、思想家等を徒らに葬ることは、人物経済の上からも甚だ遺憾なことといはねばならぬ。
更に考ふべきことは、時世の推移に従つて検閲の方針には変化があり得るとしても、もしそこに何らの基準もないとすれば、それはすべての著述家にただ時世のままに移り変ることを要求するに等しいであらう。かくては曲学阿世の徒のみ多くなり、その結果は却つて国民思想に悪影響を及ぼすことになりはしないか。検閲当局は、国家の悠久なる文化の向上に対する真の責任感か更に考ふら、常に確固たる基準を把持してゐることが望ましいのである。
(三月二十七日)