取残される思想
いつかの近衛公の言葉を俟つまでもなく、今の日本の最も重要な問題が経済問題であることは明かである。この問題は人々の毎日の生活に関係してゐるので、誰も無関心であることができない。しかるにかやうに経済問題が全面的に人々の前に立ち現はれるに従つて、従来「思想」といはれてきたものが取残されてゆく傾向が見られはしないであらうか。
例へば現在、闇取引が横行してゐるといふが、この現象の何処に「日本的」なものがあるであらうか。自由主義経済の建て前からいへば、闇相場は、それが必然的な現象であり、従つて「世界的」といふ意味のものなのである。いくら日本精神を説いても、一方において闇取引が普遍的に行はれてゐる限り、その思想は宙に浮いたものである。
以前から我々は現実的な意味における日本精神は現在の日本人の行動そのもののうちにあるといつてきたのであるが、今日の経済現象の何処に日本的特殊性があるのかと問ひたいのである。
もちろん我々は、日本主義の思想に反対するものではない。ただそれが従来のままであつては、今の日本から取残されてしまふことになり、「思想」といふものは満腹してゐる時の贅沢物に過ぎず、空腹になれば問題でないといふことになりはしないかと虞れられるのである。さうでないやうにするためには、それは現在の社会的・経済的問題を解決し得るやうな具体的な内容をもつたものにならなければならぬ。
今日、思想が取残されてゆく傾向があるからといつて、思想の必要がなくなつたわけではなく、思想といふものが新しい形で現はれて来なけれはならぬことを示してゐるのである。
例へば、安藤正純氏が議会で三民主義について質問してゐたが、現在三民主義の問題はいジャーナリズムの上では既に人気がなくなつてしまつてゐるやうであるにしても、今や支那に新中央政権が成立しようといふとき、実はその現実的な重要性をもつてきたのであり、今後益々重要性を加へてくるであらう。しかし我々はこの問題について明確な認識を与へられてゐるであらうか。
従来「思想」といはれてゐたものが取残されてゆくに従つて、今日の社会的・経済的現実の中から新しい「思想問題」が現はれてくる傾向は高まりつつある。この問題を完全に解決し得る日本的思想にして世界的意義を有し得るのである。
(三月二十日)