常識の変化
非常時は常識が無力にされ、破壊される時である。これまでの常識では間に合はなくなるから、非常時といはれるのであらう。けれども常識の惰性はなかなか強く、現実が変化して、従来の常識がこれに対しては、もはや非常識となつてゐる場合においても、なほ常識として通用しようとするものである。
常識は現実の生活の中から生れた知識であり、従つて何よりも現実の生活の変化が常識を変化させる。殊に最近の生活諸事情は、国民の常識を次第に著しく変化させつつある。例へば金と物との関係についての常識の変化である。金があつても物が買へないといふことを、国民の各自は、現実の生活において大なり小なり経験し、金よりも物を重要と考へる風が作られつつある。
国民の常識はかやうに変化しつつあるのに、政府の政策を見るとその変化がないやうに思はれるのは、指導的立場に立つものとして如何であらう。例へば、石炭の増産のために補助金や奨励金を出すといふことは、金よりも物を重要と考へる新しい常識に対して、依然として旧い常識の立場にとどまるのではなからうか。
補助金や奨励金を出しても、会社の懐ろ具合を良くするだけで、増産の成績は挙がらないといふ議論が的中しなければ幸ひである。少くともそれは、すべての経済活動は営利を唯一の目的とするものであるといふ、旧い常識から出た政策であるといはれるであらう。
議会に対して国民が冷淡であるのも、国民の常識が変化しつつあるのに、議員も政府も一方も旧い常識の範囲を出ない駆引に終始してゐるためである。「興亜議会」の面目は、いつたい何処に見出されるのであるか。
指導者よりも被指導者が進んでゐるといふ現象は、今日あらゆる方面において認められる。精動の現状などもその例ではないであらうか。指導者といふものの常識を変化して、指導者が指導されるといふことにならなければ、真の指導者は出て来ないのである。
新しい常識を作つてゆくには、今日の状態が一時的なものでないといふこと、言ひ換へると、非常時がもはや非常時でなく、新しい常態となるべきものをそのうちに含んでゐるといふことを認識することが大切である。
しかるに常識は予見し得るものではない。予見し得るのは科学であり、思想である。それが今日必要なのである。それは新しい常識の成長のためにも必要である。
(三月六日)