思想の具体性
斎藤隆夫氏の問題についていろいろ意見を聞くのであるが、いつたいどう判断してよいのであるか。判断の基礎となるべきものが公表されてゐないので噂に拠るのほかなく、ところが噂は噂する人の主観に彩られてゐるのがつねであるから、困るのである。
新聞に依ると、斎藤氏も今次の事変が聖戦であることを認めてゐるやうである。しかしそれだからといつて、むろん直ちに斎藤氏が弁護さるべきわけではない。問題は言葉でなくてその具体的な内容如何にある。そしてその点で斎藤氏の除名を主張してゐる人々も、彼等は如何なるものを持つてゐるのであるか。われわれ国民はその具体的なものが聞きたいのである。自分で具体的なものを持たないでただ便乗的に強硬論を唱へてゐるのでは、やがて同様の問題が繰返されないとは保証できないのである。
思想は元来具体的なものである。例へば政治について、経済について、また文化について、具体的な意見があつて初めて思想である。その根柢に哲学といふものを考へるにしても、その哲学は政治哲学や経済哲学、また文化哲学を含むものとして初めて完全な哲学であることができる。
しかるに今日では思想といふものが何かそれだけのものとして存在するかのやうに考へる風が愈々盛んである。だから問題は単に言葉だけのことになる。われわれはそのやうな、言葉に過ぎぬ言葉を余りに多く詰め込まれてゐないであらうか。
思想が抽象的に存在するかの如く思ふところから、思想の問題については誰もがひとかどの専門家として発言し得るかのやうに考へる誤解が広く存在してゐる。科学や技術に関することはもとより、財政や経済に関することについては、専門家といふものを不当に恐れる傾向が存在する一方、思想の問題になると今度は誰もが専門家の如く振舞ひたがる傾向がある。そこでまたどんな問題をもいはゆる思想の問題として取り上げてくるといふ傾向が生じてゐる。
思想戦といふものも、今後のそれは単なる思想のみのものでなく現実の政治や経済と結び付き、その中に入つて行はれねばならぬ。わが国において思想の統一がないといふ原因の一つも、思想といふものが抽象的な場面で闘はれてゐるところにある。
斎藤事件の現在の姿は、抽象的な名目における一致が必ずしも具体的な内容における一致でないことを示したものといふべく、従つてかやうな事件は今日わが国で思想といはれてゐるものの性質に鑑みて、今後も起り得る可能性のあることを示したものに他ならぬ。
(二月二十八日)