心に一希望を



 月収七十円以下のものに一定の条件のもとに、二円の手当を支給すると、政府で決定した。その二円が現在、木炭何貫目にあたり、大根何本にあたるなどといつて批評するものもあるが、たとひ僅かにしても、有るは無いにまさるに相違ない。ともかく、二円は二円であるのである。
 二円は二円であるといふのは論理であるが、願くはこの論理が一貫することを期待したい。今月の二円が、来月は一円九十銭の値打しかなくなることのないやうに、言ひ換へると、このうへ物価騰貴を来たすことのないやうにすることが、肝要である。今月は七十円で買へた物が、来月になると七十二円かかるといふのでは、今度は二円以上の手当を出さねばならなくなつてくる。私はここで、経済学の常識を復習しようと欲するのではない。むしろ私は、人はパンのみにて。生くるものにあらず、といひたいのである。而も物価が従来の如く連続的に昂騰してゆけば、二円の銭も石に等しくならぬとも限らない。
 この時に最も大切なことは、国民の心に希望を与へることである。二円の手当を支給することについては、我々も大いに必要を認めるものであるが、それと同時に忘れてならぬことは、心に希望を与へることであり、これは金銭で量ることのできぬ価値をもつてゐる。心に希望さへあれば、人間はどんな苦難にも堪へてゆくことができるものであるから。
 私はもちろん、単なる精神主義を説かうとするのではない。いはゆる精神主義が、その反面露骨な唯物主義でしかないことを、各人は自己の周囲において余りに屡々経験してゐる筈である。闇相場が常識にならうとしてゐる世の中に如何なる精神主義があり得るであらうか。
 ここで私の注意したいのは、最近漸く顕著になりつつある経済主義的偏向である。経済の問題が、今日極めて緊要な問題であることは、いふまでもない。しかしそのことから、経済主義への偏向が生ずることは危険である。むしろ現在大切な認識は、経済の問題も或る意味で政治の問題であり、政治の力に依らなければ、経済の改革も不可能であるといふことである。そのことを、何よりも闇相場が実証してゐる。経済に対して、つねに政治の力の加はることが必要であるといふのではない。新しい機構で経済が自働的に動き始めるやうにするには、現在政治の力に俟つことが多いのである。
 心に希望をもたらすものは、政治である。経済主義的偏向が目立つて現はれつつあるとき、特にこのことをいつておかねばならぬ。

                  (二月二十一月)