教育の不安



 新制度による入学試験は着手され内申書も既に提出済みとなつたやうである。この学科試験廃止に対してはいろいろ反対があつたが、最近には、来年はまた学科試験が復活されるといふ噂さへ出た。そんなことは無論あるべき筈のものでない。入学試験の方法がたびたび変るといふことはこれまで小学校教育に不安を与へてゐたのである。新制度の欠陥がその実施によつて明かになるにしても、ひたすらその矯正に努力して、改革の精神を徹底させる方向にどこまでも進まねはならぬ。
 問題は内申書とか口頭試問とかにある。そしてそれらが不安に感ぜられてゐるのは、根本に遡つて考へると、教育の自立性が喪失してゐるところにある。
 だいいち、これまで上級の学校しかもいはゆる「善い」学校に幾人入学できるか、といふことにのみ教員が頭を悩ましてゐたのは、小学校教育に自立性が欠けてゐた証拠である。内申書や口頭試験に疑惑がもたれてゐるのも、生徒の親の地位や財産などによつてそれらが影響されはしないかと惧れられるためであつて、ここでも教育の自立性が問題になつてゐるのである。その他種々の場合に、教育の自立性の欠乏が教育の不安の原因となつてゐることが見出されるであらう。
 現在、教育の不安として、入学試験などよりも一層重大なことは、教員の転職の増加と教員志望者の減少である。それは教員の不足のみでなく、その質の低下を必然的に結果するのであつて、これは第二の国民の養成上、まことに憂慮すべき事態である。
 教員の転職の増加や教員志望者の減少は、主として経済上の問題に基いてゐる、近頃問題を起した東京市における教員の家庭教授の如きも、恐らく同じ原因に由来するであらう。教育の自立性も経済上の問題と関係がなくはない。かくて教員の優遇方法について、真面目に考へねばならぬことは当然である。いつたいわが国のいはゆる自由職業的インテリゲンチャは経済的に恵まれることが余りに少く、そのために文化の向上が阻害されてゐる場合は多いのであり、またそのために今日彼らの間に、金銭に対して甚だ卑屈であるといふ態度も生じてゐるのである。
 しかしながら右のやうな教育の不安は、単に経済上の問題でなく、また特に倫理上の、経済倫理上の問題である。或る田舎では、農村の好況時代には安月給取りといつて教員を軽蔑し、そして一旦農業恐慌時代になると、あんなに沢山月給を取るといつて教員を叱責したといふ話を聞いたが、これは経済倫理の問題に触れてゐる。
 経済の新しい形に印して、新しい経済倫理を確立する必要は「今日の教育の不安を見ただけでも明瞭である。教員に向つてただ抽象的に倫理を説いても無駄である。教育の不安を除くためにも、国家経済の新しい形が現はれねばならぬ。


(二月七日)