革新と国民
このごろ内閣の更迭を機会に、革新派とか現状維持派とかといふこが、また喧しくいはれるやうになつた。いはゆる革新派からは、米内内閣は現状維持的色彩が強いといふ批評を受けてゐるやうだ。
革新派といひ現状維持派といふ、それがいつたい何を意味するのか、国民一般にはよくわからないのである。米内内閣はだいたい国民に好感をもたれてゐるらしいが、さうかといつて国民が現状維持的なのであらうか。現状維持と革新との対立は、国際的には、持てる者と持たぎる者との対立を意味すると考へられてゐるが、国内においても同じに考へてよいのであるか。国際的見地と国内的見地とは思想において異つてよいのであるか。
外交の上では、革新派と現状維持派との区別は、親独親ソと親英親米との区別と見られてゐるが、しからはその見地に関聯して内政問題に如何なるプログラムがあり、それに如何なる差異があるのであらうか。一般的にいつて、近年、外交問題だけを抽象して、その立場からのみ、ただ形式的に、現状維持派とか革新派とかと区別するといふやうな傾向が強いのである。支那問題については理想的なことをいつても、その物差しで国内問題をどう考へてゐるのか、明瞭でないことが多い。だから、どういふのが革新派で、どういふのが現状維持派であるのか、国民には符牒としてしかわからない。両者の主張が国民生活の実際にどういふ差異を生ずることになるのか、なんら具体的に説明されてゐないからである。
革新の必要であることはいふまでもないが、それを国民に理解させるには、外交問題だけを抽象するのでなく、国内問題を含めての具体的なプログラムを示すことが必要である。いはゆる革新派と現状維持派との競り合ひも単に一局部で行はれてゐて、国民には何の関係もないものになつてゐる。すべてが何か陰謀的に感ぜられるのも当然である。
政治は依然として国民と関係のないところで行はれてゐる。これは、現状維持派であらうと革新派であらうと、変りがない。しかもその国民と関係のないところで行はれてゐる政治の結果は、すべて国民にふりかかつてくるのである。真の革新とは何であるか。政治が国民の中に入つてゆくことである。そのことに努力しない限り、いはゆる革新派も革新的であるとして国民には受取られないのである。
(一月二十四日)