国民の持久力



 日本人の持久力はよく問題にされてゐる。実際、日本人に耐久力が乏しく粘着力が少いといふ事実は、いろいろ挙げることができるであらう。しかし反対の例もあるのであつて、文化上においても、例えば水戸の大日本史、塙保己一の群書類従、或はまた稲生若水の庶物頬纂、慈雲尊者の梵学津梁など尤大な著述が現はれてゐる。
 いつたい国民性といふものは歴史的に作られるものであり政治的・経済的・社会的条件に依存するところが多い。それらの条件の異るに従つて国民性も種々異る形をとつて現はれるのが普通である。
 日本の国民に先天的に持久力があるかないかといふことは容易に決定し難い問題であるが、今日の日本に持久力が必要であるといふことは誰にも異論がない筈である。しかも国民に持久力を発揮させるには何よりもそれに適した政治的指導が行はれなければならぬ。
 ところが今日の実際の事情はどうであらうか。簡単な話が男子の断髪とか女子の電髪禁止とかは、一時ずいぶん喧しく云はれたものであるが、その結果はどうなつてゐるであらうか。あの頃官庁においても次官あたりが率先して髪を切つたところがあるが、最近では、いつの間にか髪を伸ばしてゐるものが多いといふことである。頭髪のことなど、実はどうでも好いことであるが為すことに持久性がないのは困ることである。
 この例からも考へられるやうに国民の持久力を悪させるには、瑣末なことを喧しくいふのを止めて重点に力を集中させねばならない。特に不合理なことを強要しようとしても駄目である。不合理なことは持続しようにも持続しようがないのである。一時の興奮から極端なことを云つても永続するものではない。それは現状維持といふことでなく現状の改革も合理的な方向に合理的な方法で行はれねばならぬといふことである。国民の納得し得る政治がなければ国民の間に持続力は生じない。もちろん今日の事態においては無理も要であらう。しかしその無理を行ふに国民が均等に犠牲を負担するといふことが必要なのであつて、それがつまり無理の社会的合理化なのである。
 汪兆銘氏の政権の誕生が近いと伝へられるが、それは事変処理の重要な段階であるにしても要するに一段階に過ぎない。国民の持久力に対する試煉は今後において益々加はつてくるであらうが、この点について精動あたりでも反省すべきものが多いであらう。支那の立場と日本の立場とではおのづから出て来る国民の持久力に差異があるのは自然であつて、日本においては一層懸賢明な政治が必要なのである。


(一九四〇年一月十日)