重点主義



 近頃しばしは重点主義といふことがいはれてゐる。この時局において、あれもこれもといふこ
とが出来ぬ以上、重点主義はまことに当然のことである。
 問題は、果して重点主義が実行されてゐるか否かといふことである。百億を超える尨大な予算
を見るとき、青木蔵相の言明にも拘らず、実際に重点主義が行はれてゐるのかと、国民は疑ふの
である。殊に官僚的セクショナリズムの存在を考へるとき、その疑ひが生ぜざるを得ない。セク
ショナリズムは、重点主義とは本質的に反対のものであるからである。
 重点主義は政府にとつて必要であるのみでなく、国民にとつても大切である。今日における何
よりもの重点が、支那事変の処理にあることはいふまでもない。わが国が欧洲戦争に不介入の方針を宣明したのも、かやうな重点主義の現はれである。ところがこのごろ、人が寄ると、すぐ米
や炭の語に花が咲いて、恰も支那事変を忘れたかのやうであるのは、まことに遺憾なことといは
ねばならぬ。国民の関心を重点主義に導いてゆき得るやうな政治が要求されるのである。
買溜めに対して厳重な取締りをするといふことは、固より結構であるが、これも重点主義でな
ければならぬ。一般国民が政府の政策に対する不安のために、自衛上やつてゐるやうな零細な買
溜めに注目して、大口の冒溜めや買占めをのがすやうなことがあつては、重点主義とはいひ難
い。警官が戸別訪問をして、買溜めを調べるなどといふことは、重点主義の立場から、どうかと
思はれるのである。かやうなことによつて、昔、米を箪笥の中へ隠したといふやうなことが、再
び行はれることにでもなれば、国民の道徳心に対する影響は重大である。国民心理に留意すべき
ことを要求されてゐる政府は特に国民の道徳心に着目しなければならぬ。
 年末の街頭における酔つぱらひを、取締るといふことも賛成である。これは事変とは関はりな
く、常にいはれてきた社会道徳上の問題である。しかしながら街頭の酔つぱらひにのみ注意して、
大いに軍需景気に浴してゐる人々の振舞ひを見のがすやうなことがあつては、重点主義とはいは
れない。これは一方、統制の犠牲となつてゐる人々もあることを考へれば、深刻な社会問題、思
想問題の原因となり得る重大なことである。
 重点王義はあらゆる方面において徹底されねばならない。政府のみでなく、国民もその生活に
おいて、重点主義を守らなければならぬ。         
(十二月二十日)