教育の実用化



 教育の実用化は最近の著しい傾向である。それは確かに必要なことであるに相違ない。けれど、それは飽くまでも根本的な意味においての実用化でなければならぬ。
 教育の実用化はまづ興亜講座の如きものの設置となつて現はれたが、今度さらに、文部省では著名な実業家たちを動員して、産業報国講座といふものを開設することになつたさうである。
 近年、大学の如きも自治的乃至自主的なところがなくなり、何でも文部省の指図で行はれる風があるのであるが、この産業報国講座の如きはまさにそれである。そして学園の構成を誰も問題にするものがないといふ有様である。学校はもはや自分で学生を教育する能力がないと見られることに甘んじてゐるのであらうか。教育の実用化が真に必要であるなら、学校自身の手で実行すべきではないか。
 いつたい産業報国講座で何を教へるのか知らないが、ラヂオ講演のやうなものになつてしまつて、学生を退屈させるやうなことがなければ仕合せである。賀屋元蔵相の学識をもつてしてなほ、その大学における講義が失敗に終つたことを学生たちは語つてゐる。もとより今日のアカデミーを不当に尊重することは正しくないが、またそれを不当に軽視することも間違つてゐるのである。
 現在行はれつつある意味における教育の実用化は、要するに人から使はれて便利な人間を作ることになつてゐるやうである。それは人を使ふ人間、真の指導者を作る教育とはなつてゐない。
 ところが今日必要なのは指導者的人物を作ることではなからうか。なるほど「人的資源」の不足が力説されてゐる。けれども、人的資源の不足とは単に人に使はれる人間の不足をいふのみでなく、実にまた真に人を使ひ得る人間の不足を意味するのである。
 我が国の教育は、これまで指導者的人物の教育を心がけなかつた。今日の官僚政治の弊害もそこに由来してゐるのである。そしてその官僚が教育の実用化として行はうとしてゐるものも、実は人から使はれて便利な人間を作ることにほかならないやうに思はれる。
 教育の実用化は、その本来の意味においては科学教育の徹底でなければならぬ。古い神学や形而上学から離れて、科学的精神を養成するところに教育の真の実用化が存するのである。実用的教育と考へられる技術の教育も、科学を離れては根のないものである。


 (十二月十三日)