消極的個人主義



 個人が社会に対して自分を主張するのが個人主義であるといはれる。しかし個人が社会から自分を守らうとするのも一種の個人主義であつて、消極的個人主義と呼ぶことができる。個人主義は西洋のものであるといはれるが、この消極的個人主義は東洋にもあり、殊に支那人の間では発達してゐた。
 最近経済事情の激しい変化は種々の影響を示しつつあるが、中にもこの消極的個人主義を結果してゐる。個人の買溜めなど、その著しい例である。消費者が買溜めするのは、それによつて社会の変化から自分を守らうとするのである。東洋古来の消極的個人主義は隠逸の思想、無所有の思想となつたのであるが、それが現在では買溜めの思想などとなつて現はれるところに時代の変遷を見るべきであらうか。
 消極的個人主義は社会に働きかけて社会を変化しようとするのでなく、社会の変化に消極的に適応しようとするのであるから、買溜めは更に買溜めを生むといふやうなことになる。しかし人間は結局社会的動物である。多くの人の冒溜めによつて社会の経済が破綻することになれは、買溜めする者もその影響を蒙らざるを得ない。環境に対する消極的な適応にはおのづから限度があるのであつて、却つて環境を変化することによつて環境に適応するといふところに昔も今も人類の進歩があるのである。
 しかし消極的個人主儀は主観的で心理的であることを特徽としてゐる。現在の買溜めの如きも物資の不足等に対する心理的不安から出てゐるものが多い。インフレーションに対する心理的不安が大衆の間に浸潤するといふことはインフレーションを速める結果にもなるのである。
 だから今日必要な対策の一つは物資の不足等といはれるものの実情とその真の原因を国民に知らせることである。実情と原因を知らないで不安がつてをれば、不安はいよいよ増すはかりである。心理的不安を客観的認識におきかへるところから環境を変化することによつて環境に適応するといふ人間本来の態度も出てくるのである。
 従来支那人の消極的個人主義は政治を信頼することができなかつたために生じたといはれてきたが、今日我々の間に現はれ始めた消極的個人主義が政府の物価政策等に対する信頼が国民にないために生じたのでなければ幸ひである。強力な政治主のない統制は却つて混乱の原因となることを考へねばならぬ。


(十二月六日)