知識人の表情
この頃の文化界、思想や文学などの方面を見て誰もが感じてゐるのは、問題がなくなつたといふことである。問題がなくなつたといふのは基本的な考へ方がなくなつたといふことである。だから批評も現象的とならざるを得ない。論争といふものも殆ど見られなくなつた。一つの基本的な考へ方に統一されたのでもなけれは、互ひに対立する基本的な考へ方に分裂してゐるのでもない。だから批評も自づと追随的とならぎるを得ない。
問題がないといふのは、問題が出尽したことであると考へられるであらう。語るべき事は既に語り尽されてゐるかのやうに見える。問題は、それを綜合し、統一し、組織することにある、そこから更に新しい問題が出てくるであらう。だが、かやうな建設的な仕事は果してなされてゐるであらうか。例へば思想の方面において喧しく論じられてきた日本主義、日本的固有性、全体主義、三民主義等々について、人々は明瞭な観念を与へられてゐるであらうか。すべては矢張り曖昧に止まつてゐるやうに思はれる。そしてその曖昧さのうちに互ひが一致してゐるやうな顔をしてゐる。この奇妙な一致の表情は極めて特徴的である。
もとより問題はなくなつてゐないどころか、新しい問題も出てきてゐる筈である。だが、新しいものに対する驚異の心が失はれてゐるやうに見える。例へば青年が人に物を訊く場合、彼等は老人の如くである。自分に問題があつて訊くのでなく、たゞ何を言ふか一つ聴いてみてやれといふので訊くのである。だから反対するのでもなく、賛成するのでもなく、要するにどうでも好いのである。極めて小さいものにも驚異を感じる心が青年性であるが、さうした青年性は青年からさへも失はれてゐるやうである。
知識人のかやうな状態は、彼等が社会において指導する者であるといふ意識のなくなつたことを示してゐるであらう。知識階級が指導者であるといふことは、現実によつて否定されたやうに見える。しかし他方、知識人のそのやうな状態は、彼等がほんとに他から指導されてもゐないことを示してゐる。もし知識人以外の誰かに知識階級を指導するといふ意志があつたとすれは、今日の現実は否定的な結果を現はしてゐるのである。
ところで右にいつた奇妙な一致の表情、それを我々はただ知識人の顔においてのみ見るのであらうか。
(十一月二十九日)