責任の道徳
政府で自分が声明した少数閣僚主義を抛棄して閣員の補充をすることにしたら、大臣病患者が輩出して識者は顰蹙してゐるとのことである。いつたいこの閣員補充の根本の理由が公明でない。来るべき議会を切抜けるためであるともいはれるが、さうだとすれは、道具に使はれることを知りつつ大臣になりたがる政党人の心が我々には理解しかねる。
この困難な時代に最も責任ある地位に就くといふには、よほどの覚悟と確信が必要であらう。事変処理について、外交について、国内改革について、はつきりした見透しと政策とをもつてゐるのでなければ、容易に大臣など引受けられない筈である。ところがいつでも、官僚にも政党人にも、無数の大臣志願者が存在するといふのは、果してこの時局を自己の責任において最後まで乗り切る覚悟と確信のある者が無数にゐることを意味するのであらうか。
それならまことに頼もしいことであるが、事実はむしろ反対に、ただ大臣になりさへすぶば好いので、後は出たとこ勝負でゆかうといふのであれば、甚だ無責任なことと言はねばならぬ。もし万一にも、どうせ内閣の寿命は五ケ月か十ケ月なのだから、その間だけ何とか凌ぎさへすれば好いのだといつたやうな気持があるとしたら、最後はどうなるのであるか。大臣は辞職することができても、国民は辞職することができないのである。
もとより私は政治家が善意を有することを必ずしも疑ふものではない。しかしマックス・ウェーバーが言つたやうに政治家の道徳は単なる「心情の道徳」でなく「責任の道徳」でなけれはならぬ。即ち政治家は自己の行為の諸結果に対して責任を負ふべきであり、そのためには彼は自己の行為の将来における諸帰結について見透しをもつて処してゆかねばならぬ。責任の道徳は認識を必要とするのである。
或ひは言ふかも知れぬ、今日のやうな状態において、例えば日本の財政経済がどうなつてゆくか、誰が知り得るであらう、と。事情は確かに複雑である。しかしそれが複雑であるといふことは却つてそれを認識すべく我々を鼓舞する所以でなければならぬ。従来の経済学が用をなさなくなつたとすれば、それは却つて経済学者に新しい経済学建設の光栄を担ひ得る希望を与へることでなければならぬ。認識を抛棄することは人間性を抛棄することである。
新しい政治家、新しい学者、思想家等の出てくる条件は既に具はつてゐるやうに見えるに拘らず未だ現はれないといふのは何故であるか。そこにこそ日本の悩みの最も深い理由があるのでなければならぬ。
(十一月二十二日)