鍛錬冬休
鍛錬冬休といふ言葉は、石黒前文部次官時代の鍛錬夏休といふ言葉につながるものである。その頃文部省では休むといふ観念を排斥し学則を変更して爾後学校から夏休といふ言葉を抹殺しようといふ意気込みであつた。今鍛錬冬休が近づくにあたつて、当局では実情に即してその再検討を行つてゐるとのことである。
実際、今年の第一回鍛錬夏休の結果をみると、種々の弊害もあつたのである。小学校ではその為に病人を出したり、その時に入学試験準備をしたりすることがあつたし、私立学校の中には休暇廃止に藉口して授業料を徴収したりする所もあつた。また大学理工科、実業専門、各種実業学校においては既に以前から休暇中に実習などをしてゐたのだから、鍛錬休暇といつても一律に考へることは無意味であるのみか有害でさへある。
休暇廃止によつて迷惑を蒙る者に教師がある。休暇は教師にとつて自己の教養と研究の時間であり、新しい講義に対する準備の時間である。それは教育のためにも大切なことである。真面目な教師であればあるほど休暇廃止を遺憾に思ふであらう。
また生徒学生にとつては休暇は学校で学び得ぬことを学ぶ時期である。休暇廃止は学校のみが教育の場所であるかの如く考へる間違つた観念を知らず識らず前提してゐるのではなからうか。
一般の農家や町家では休暇は子供が家事や家業の手伝をする時である。これは極めて重要な教育である。休暇が単に遊ぶ時であるといふのはサラリーマン的観念に過ぎぬ。家事や家業の手伝をする必要のない者は自分で計画を立てて読書したり研究したりするやうに仕向けるのが好い。休暇は自主的な勉強にとつて最も好都会な時である。学生生徒の自発性を養ふことをしないで何事も命令的にやらせるといふことがこの頃の教育の精神であるらしいが、休暇廃止もその現はれではないであらうか。
休むといふ観念をなくするといふことは小吏的な道徳感に発するものである。休むといふことは自然の法則であり、それが道に従ふ事でさへある。休むといふ観念は宗教的な意味をさへ含んでゐる。休むことと怠けることとは同じでない。休むことから深い考へも出て来るのであり、ただ働くことからは精神的に奴隷的な思想しか生じないのではなからうか。
もちろん私は、経済上或ひは軍事上の緊急の必要から休暇廃止をしなければならぬといふのなら、必ずしも反対するものではない。それが小吏的な道徳観念に基くとすれば、教育上弊害が多いことに注意しなければならぬ。
(十一月八日)