統制の自働性
統制は益々強化されてゆく。それは戦争遂行のために絶対に要求されてゐることである。しかし統制を単に戦争のために必要なものと考へることは間違つてゐる。統制は経済の新しい歴史的な形として捉へられねばならない。戦争はこの経済の新しい形への変化を促進する機会となつたのに過ぎぬ。
統制をただ戦争のために必要なものと説くことは、事変さへ済めば再び自由主義経済に戻るかのやうな幻想を抱かせることになる。事変が済んでも国防の必要は減じないといふ理由から統制の持続を説くことも不十分である。自由主義に代るべき経済の新しい形として統制の積極的意義を国民に理解させることが大切なのである。
事変とか国防とかの必要からのみ統制を説くのは、国民に対して単に犠牲を要求することになる。統制の犠牲になる人々に対して、日本は今戦争をしてゐるのだからそれ位の犠牲は当然だといふ風に当局はいつもいふのである。なるほど個人としては、社会のために自己を犠牲にすることは彼の道徳であるといへるであらう。けれども社会としては、個人に対して絶えず犠牲を要求するやうな社会は健全な社会とはいひ難い。統制によつて旧い組織が壊されるために犠牲になる人々を救ひ上げることのできる新しい組織を同時に作ることが統制の仕事である。「食へなければ大陸へ行け」といつたやうな無責任な放言をする官吏があるといふのは、民衆の立場に身をおいて考へないことであるのみでなく、統制の真の意義を理解しないものといはねばならぬ。
統制の目的は、経済の新しい体系を全体的に作り出して、この体系自身の有する力によつて自働的に統制が行はれるやうにすることにある。統制とは単に外部から圧力を加へることではない。体系に内在する自働的な統制力を発揮させるのでなければならぬ。外部からの権力はかやうな新しい形を作り出す過程において必要なものとして働くに過ぎない。統制が体系の力によつて自働的に行はれるやうになつた場合、統制と自由との対立はなくなるであらう。
統制が単に官権的取締となつてゐるのは、そのやうな全体的な統制の構想がなくて、ただ彼方此方と火のついたところを消して行かうとする火消し的統制の然らしめることである。これでは国民が不安になるのも無理はない。新しい経済体制の基礎となるべき新しい経済倫理に対して国民を教育するといふ重要な仕事もまるで閑却されてゐるのではないか。
(十月二十五日)