思想の不信
この頃の新聞雑誌において著しくなつたのは思想に対する不信である。それは最近ドイツやソヴェト・ロシアの行動に、その主張してゐたイデオロギーと矛盾するものがあるかの如く考へられるやうになつて目立つて現はれてきた現象である。
この思想の不信はもちろん今に始まつたことではない。ただ従来は政治の思想性そのものを力説してゐた政治の力に圧せられて隠されてゐたのが、最近政治情勢の変化を機として表面に現はれるやうになつたのである。
思想に対する不信は思想の歴史のうちに古くから存在してゐる一つの思想である。しかし現在、思想に対する不信は如何なる性質のものであるか、その特珠な性質を吟味することが必要であると思ふ。
今日、思想に対する不信は思想に対する不信ではない、むしろ政治に対する不信である。政治の不信をそのものとして直接に表明することが妨げられてゐるために思想の不信として間接に表明されるのである。問題の思想といふのは政治上のイデオロギーなのであるから。これは政治家として深く考ふべきことである。
また従来思想について真面目に考へたことがなく、ただ何かの必要のために思想の問題を論じてゐた者がその必要の失はれたやうに考へて今日俄に思想に対する不信を語つてゐるのである。自分の思想的無能力をこの際公然と告白してゐるやうなものである。これまで威儀を正してゐた者が急に尻をまくつて居直るといつた恰好である。いつたいこのやうに尻をまくつて居直るのは何か痛快なところがあり、日本人には特にそれを喜ぶといふ風がある。かやうな居直りが喜ばれるといふことは思想の発展に対する大きな妨害の一つである。
思想に対する不信によつて現はれてきた今日の現実主義こそ極めて危険なものであらう。それは政治上の無方針どころか敗北主義でさへあり得る。それは生活上のデカダンスを現はすものである。人間も世界も結局思想によつてのほか救はれないのであつて、思想のない現実を考へることは結局非現実的なことである。しかし今日思想に対する信頼は政治に対する信頼が建設されることによつてのほか回復されないのである。
(十月四日)