思想と現実
最近のヨーロッパ情勢を眺めて感じることは思想と現実との或る乖離である。
ドイツとソヴェトとは思想的に全く対立し、氷炭相容れざるもののやうであつた。それが不侵略条約を結ぶに至つた。防共精神に貫かれたベルリン・ローマ枢軸として喧伝されたドイツとイタリアとの間も、その連繋がどれほど緊密なのか、今では疑はれるやうになつてゐる。かやうなことは単なるイデオロギーの上からは理解できず、現実の諸関係の認識に基いて初めて理解され得ることである。それは思想だけから考へると「複雑怪奇」に見えるにしても、現実を分析してゆけばその理由がわかることである。
平沼前内閣の「道義外交」は破綻した。だがいはゆる道義外交は道義的であつたが故に破綻したのではない。破綻の原因はむしろ、抽象的にイデオロギーに固執して現実を正視することを忘れ、或ひはイデオロギーの色眼鏡を通して現実を客観的に捉へることができなかつた所に存在する。もちろん思想は大切である。けれども思想のために現実があるのでなく、現実のために思想があるのである。思想は現実を正しく把握するためのものでなければならぬ。しかるに近年我が国においては余りに思想の問題に拘泥して、思想を現実に適応させる弾力性が欠けてゐたのではないかと思ふ。
世界は自由主義、全体主義、共産主義に三分して抗争してゐるといはれてきた。これはその通りである。だがその対立を抽象的に固定して考へることは間違つてゐる。偏見なしに見る場合、現実はかかる抽象的な思想的対立を超えて或る共通のものに向つて進みつつあるといへるであらう。思想は不当に政治化されることによつて抽象的に固定され、現実に遅れつつあつた。殊に今度のヨーロッパの戦争が拡大する場合、従来いはれた思想的対立に如何なる変化の生ずるかが世界史的に重要である。思想を固定的に考へることはもはや非現実的なことになつてゐる。不当な政治化から思想を解放して、いま一度自由な眼で現実を見直すべき場合である。
ナチスの転向以来、我が国においても「現実政治」への転換が一部で唱へられてゐる。だがもしその現実政治が俄に道義を無視して権謀術数に向ふことであるならは、甚だ危険であるといはねばならぬ。道義はどこまでも大切である。ただそれは現実から游離したものであつてはならないのである。そして現実政治は現実についての正確な認識を基礎とすべきものであつて、現実の認識の上にしつかり立つた上でのみ術数も或る意義を有し得るのである。
(九月十三日)