革新と伝統
学徒隊案をめぐつて文部省と大日本青年団との対立が伝へられてゐる。
支那事変の発展は必然の勢をもつて旧い伝統を破壊してゆく。欲すると欲せざるとに拘らず革新は進行せざるを得ない。我々は今「青年団の危機」といはれるものに於てその一つの例を見るのである。
元来、青年団は、氏神の祭祀などを中心とした昔の若衆の組織から発達したものであつた。それは元来自然発生的なもので、村や町における共同社会(ゲマインシャフト)的生活の表現として、それぞれ特色のある伝統を有するものであつた。尤もそれが大日本青年団に統一されていはゆる「官製青年団」になると共に、既にそのやうな共同社会的要素は次第に消滅してゆく傾向にあつたが、この傾向は今度の学徒隊編成によつて飛躍的に増大することになるであらう。
文部省は復古主義或ひは伝統主義の本尊のやうにいはれてゐる。その文部省が伝統破壊的と見られるやうな学徒隊案を作るやうになつたのである。それは外国の模倣であり翻訳であるなどといつてもはじまらない。我々はそこに、世界が民族主義者の考へるのとは違つて遙かに統一的に動いてゐることを知り、またそこに、伝統主義に対しておかれてゐる必然的な限界を見るのである。
青年団はもと共同社会的生活の一表現であつた。その共同社会的封建的なものである限り、それは変化しなけれはならず、また変化してきた。しかし今日の革新の目標は、近代的ゲゼルシャフト(集合社会)を超えた新しいゲマインシャフト(共同社会)を作ることであるとすれば、青年団の伝統のうちに存するやうな共同社会的要素が新しい仕方で生かされねばならないのである。
共同社会的生活の表現であつた盆踊りや村芝居などがなくなつて映画が農村青年の唯一の娯楽になつたり、全国一斉のラヂオ体操だけになつてしまふといふのは欺かはしいことである。盆踊りや村芝居に新しい形式と内容を与へ、地方の青年の生活に即した新しい舞踏会や劇団組織を作ることが大切な問題である。学徒隊の編成は盆踊りをラヂオ体操に変へてしまふといふ類のものになりはしないであらうか。
革新は必要であるのみでなく、必然である。しかし官僚的革新が抽象的なものになり易いことに注意しなければならぬ。共同社会的生活の伝統と革新との関係を正しく理解するならば、文部省と青年団との一層高い目標からの和合の道は存在する筈である。
(八月十六日)