国語の改良
国語国字の問題についていろいろ論じられてゐる。それが今日の日本にとつて重要な問題であることはいふまでもない。ローマ字論、カナ文字論、振仮名廃止論、等々説はいろいろあるが、問題は簡単でないやうである。
困難は、言葉の問題が単に機械的な便宜主義で片付けられないところにある。言葉は人間の生活と有機的に結び付いたものである。国民の生活が変らなけれは国語も変らず、国民の生活が変れば国語もおのづから変つてゆくのである。国民の生活から抽象して国語の問題を考へることはできないわけであるが、従来の国語改良論には案外そのやうな抽象論が多いのではなからうか。国語の改良は国民生活の改良と結び付けて考へられねばならぬ。
言葉は思想の表現である。これは極めて簡単な真理であるが、この簡単な真理も従来の国語改良論においては案外忘れられてゐるのではないかと思ふ。思想が変らなければ言葉も変らず、思想が変れは言葉もおのづから変るのである。言葉の問題は単語の問題であるよりも文章の問題であり、その根柢には思想の問題がある。
明治時代における文語体から口語体への発達は自由主義とかデモクラシーとかの発達と関係して可能であつた。新聞の論説が現在のやうに言文一致体になつたのも、普通選挙が唱へられた頃からであるとのことである。
早い話が、最近の政治の言葉に「秩序」とか「創造」とかといふともかく新しい言葉が現はれるやうになつたのは、前内閣における一種の思想的若さのためであり、平沼内閣になつてからその言葉が古めかしくなつたのも、この内閣の思想的年齢を示してゐるやうに思はれる。
国語の改良には思想の進歩が必要である。国民思想を何処へもつてゆくかは国語の改良にとつても大きな関係がある。思想の方向を確立しないで国語改良の方向を決定することができない。思想の上ではデモクラチックな思想とは反対の方向をとりながら、国語だけをデモクラチックな方向に改良することは不可能である。国語改良論者が単に言語学的問題に止まらず、生活及び思想問題に深く留意することを希望したい。
(八月九日)