音の統制



 音の統制が行はれるといふのはよいことである。「隣のラヂオ」は以前からよく苦情の種であつたが、それも今度公けに注意されることになるといふのは結構である。
 音の統制は近代都市における重要な問題の一つである。それは建築、交通機関、都市計画にも関係する大きな問題である。外国の都会に比較して騒音の多い我が国の都会がもつと静かな住み場所になるのは、身体上からも、精神上からも、必要なことである。
 音の統制はもちろん音曲、音楽についても考へられるものである。そしてこの統制が今日では問題になつてゐる。
 映画、演劇、ラヂオ、レコードなどによつて、新作の音曲、歌謡が氾濫する。特に支那事変以来、時局をあてこんだ音曲、歌謡が続々と作られてゐる。そしてこれは国民精神作興の手投として、官辺からも歓迎助長されてゐるやうである。だがそれら多数の歌謡のうちに果して幾許の傑作があるのであらうか。事変関係の歌で好いのは馬の歌だけだと云ふ者がある。ここにも確かに統制の必要があるのである。
 真に求められてゐるのは会社の商業主義のもとに作られる歌でなく、溢れる感激の発露であり芸術的に価値の高い作品である。もちろん傑作はかりが現はれることを望めるわけではない。しかし粗製濫造の愚作悪作の氾濫はその影響からいつて考へねばならぬことである。文学の如き場合には自分で作品を読まなければ影響されることもないが、外部から強制的に耳に入つて来る音楽の場合にはその影響が恐ろしいのである。
 歌謡の取締りにおいては歌詞だけが問題であるのでなく、寧ろ重要なのはその音楽の性質である。文句は無難であつても、その曲の低調愚劣なものがある。歌詞にのみ拘泥して音楽の本来の性質を忘れてはならない。それにしても我が国の音楽はどうしてかう哀調を帯びたものばかりなのであらうか。時局関係の歌謡にしてもその音楽の根本において哀調を帯びたものが尠くないやうである。この哀調の特殊な哲学的意味について深く考へてみる必要がある。
 古の聖人は音楽によつてその国の風俗人情を知り、そして国民教育における音楽の意義を重要視した。興亜日本にふさはしい希望と活動と理想とに国民を鼓舞するやうな新しい音楽が作られなければならぬ。


(八月二日)