良書の基準



 あらゆる賑々しさにも拘らずどうにもならない文化の停頓を真面目な文化人は感じてゐるやうである。今は静観の時だといはれるのも、そのためである。それは必ずしも消極的な言葉でなく、むしろそこに逞しい文化意志が隠されてゐるかも知れない。
 文壇などにおいて老大家の活躍時代になつたといはれるのも、同じ事実に対する皮肉として受取られる。老大家の活動が特に目立つほど文学の停滞が著しくなつたのではなからうか。
 ところで今文部省では国民の読書指導を積極化するとのことである。即ち全国地方長官並びに各種団体に対して、爾今文部省推薦図書はその推薦理由を付して各府県の公報その他の刊行物、各団体の機関誌等に毎月掲載するやう通達したといはれる。そのやうな良書推薦は既にラヂオによつても行はれてゐる。更に出版社に対しても良書の基準を示すことになつたといはれ、かくて将来は劃然と良書と悪書とを二分して国民の読書指導に当る意図を有すると伝へられてゐる。
 それは悪書の横行が余りに甚だしいためであらうか。良書推薦は結構であるが、推薦された本はほんとに国民に親しまれてゐるであらうか。どんな傑作でも学校の教科書になると面白くないやうに、文部省推薦などとレッテルを貼られると却つて読みたくなくなるといつた心理もあるものである。
 いつたい良書と意書とを劃然と区別する基準は如何なるものであらうか。世の中に悪書はないといふやうな極端な真理はこの際問題にならないにしても、良書の基準といふものはなかなか難しい。出版当時には批評家に認められないで悪評を蒙つたものが、やがて立派な古典になつた例は稀でない。良書推薦は無論やつて好いことであるが、同時にその基準の困難についての自覚がなければならぬ。
 すべて困難を知ることが大切である。学問の困難を知つてゐる者は良い学者であり、文学の困難を知つてゐる者は良い作家であり、批評の困難を知つてゐる者は良い批評家である。良書の規格化はそのやうな困難を蔽ひ隠す虞れがある。殊に官庁の仕事である場合、ただ無難を求めて真の批評精神を失ふことになり易い。
 現在のやうに文化の停頓が感じられてゐる時には、一面的な基準による良書普及の積極化は文化を益々固定化する危険さへあるのである。それが真の創造的精神を阻害することにならぬやう細心の注意を要する。文化の停頓と感じられてゐるものを克服してゆくことが今日の重大な問題である。


(七月二十六日)