品質の統制
次第に広くスフ入りの品の使用が余儀なくされるやうになつて、そのやうな品物の質が悪くて困るといふ声が聞かれる。スフの如きものについてその品質の改良に最善の努力がなされねばならぬ。
しかるに斯ういふことが言はれてゐる。今日の状態においてはその品質の改良は望まれない。どんな物を作つても売れるのであるから、作る方では質を善くすることに努めない。例えばスフのやうなものでも、綿や毛と競争しなければならぬ時には、品質の向上に一生懸命になるが、そのやうな競争がない時には、その努力をしないといふのである。
かかる状態においては品質の統制が必要である。物価の統制だけでは足りない、量的な統制のみでなく、質の上での統制が行はれねばならぬ。物価の問題はもとより大切であるが、それに心を奪はれて品質の統制を忘れてはならないのである。
しかるに量的な統制は外部の力によつて行ふことができるにしても、質の問題になると主として生産者自身の自覚に俟たねばならぬ事情にある。この自覚は従来の営利主義的な観念の修正を基礎としなければならぬ。個人的な利潤本位の立場から公益の立場へ、考へ方の変つてくることが要求されてゐる。
需要が増して来ると品質が落ちるといふのが普遍的な状態である。これは物品にのみ限られない。文学書がよく売れるといはれると、凡作愚作が氾濫するやうになる。それを読まされた者は文学は詰らないと考へて願みなくなり、やがて文学書は一般には売れなくなるかも知れない。文学のやうなものの場合にはそれでも済むが、日常生活の必需品に至つてはさうはいかぬ。何でもあるもので我慢して求めねばならないのである。生産者の社会的良心と、経済の社会的意味についての考へ方の発展が特別に望まれるわけである。
需要が殖えて品質が下るといふことは、精神的並びに物質的生産物のみでなく、人間そのものにもそのやうな傾向がありはしないかと心配されるのである。人間の需要が多くなるに従つて、各人が自己の向上発展に努力しないといふ傾向があつては困る。そのうへ悪貨が良貨を駆逐するといふ法則が現実に行はれるとすれば、甚だ憂ふべきことである。ここでも品質の統制が必要である。それは単に外部からの統制の問題でなく、内部からの統制の問題として、各人が良心を鋭くし、社会と国家に対する真の責任を自覚しなければならないのである。
(六月七日)