論理の峻厳


 依然として闇相場が行はれてゐるといふ。依然として闇取引が盛んであるといふ。法律は遂に現実に先立つことができないやうに見える。経済警察の眼をかすめて、次から次へ新しい手段により闇相場の取引が行はれてゐるといふ。
 この事態はもはや法律と警察の力だけでは抑止することができないといふので、国民の道徳的自覚の必要が新たに叫ばれるやうになつた。問題はそこで国民精神総動員に関係してくるであらう。闇取引が如何なる人々によつて最も盛んに行はれてゐるかを考へるならば、国民精神総動員は最も何処に向ふべきであるかが明瞭になる筈である。
 しかしいはゆる闇相場も、自由主義経済の原則からいへば、何等闇相場といふべきものでないことが注意されねばならぬ。それは自由主義の論理の必然的な帰結である。我々は現在の闇相場においてこの論理の峻厳さを今更の如く知らされるのである。単なる「心」 によつてこの論理を破ることは不可能である。
 もちろん国民の道徳的自覚に訴へることは必要である。しかし道徳にしても、それ自身斉合的な、組織的なもの、従つて論理を含むものでなければ無力である。国民精神総動員に対して我々が思想性を求める理由もそこにあるのであつて、単に個々の思ひ付だけでは今日の事態は救ひ難い。
 一国の経済にゆとりのある間はその論理も苛烈さを示さないが、ゆとりが少くなるに従つて論理は愈々その峻厳さを現はしてくるものである。これは問題のインフレーションについても深く考へておくべきことであらう。
 一つの論理に対抗し得るものは結局他の論理である。心とか心理とかいふものは固より大切ではあるが、このものもそれ自身論理的になるのでなければ、論理に対抗し得ない。求められてゐるのは単なる心理でなくて新しい論理であり、この論理が主体化され心理化することである。今日必要なのは自由主義に対する統制であることは明かであるが、この統制は自分自身新しい論理によつて組織されるのでなけれは、遂に自由主義の論理に対抗し得ないであらう。
 論理の峻厳さが明瞭になり始めた今日において、論理を軽蔑し、すべてを「心」の問題として片付けようとする風があり、寧ろその風がインテリゲンチャの間において甚だしくなりつつあることは、敗北主義の一種ではなからうか。闇相場の論理はこの際教訓的である。


(五月二十四日)