常識の効用
革新といつても常識が必要である。かう云へば、常識で間に合はなくなつたからこそ革新が必要になつたのではないか、と反対されるかも知れない。しかしさう云つても、これまで我が国においては常識が求めてゐる程度の革新でさへ行はれてゐるであらうか。
そればかりでなく、革新の基礎はやはり常識であると云ふことができる。いろいろの試み、いろいろの失敗の後にけつきよく常識へ戻つてくるといふことは、個人の生活においても社会の歴史においてもつねに見られることである。常識とはつまり長い間に鍛錬されてきた試験済みの知識であり思想である。常識を単に保守的なものとのみ考へることは当らない。実際に革新が必要になつて来た時代においては、革新の行はれねばならぬといふことが今度は常識になつてゐるものである。
非常時に失はれ易いのは常識である。国民は非常識になつてゐないのに、革新を唱へる者がとかく非常識になつてゐるのである。何か新奇なことを云はなければ革新的でないかのやうに考へ、そして実は従来の西洋模倣の風に知らず識らず従つて、そのやうな新奇なものをドイツなどの外国から借りて来るといふが如きことは特に慎まなければならない。それが既にひとつの非常識である。革新家は自己の主観的な情熱に駆られてかやうな非常識になり易いものである。しかし非常識であつては革新は行はれないであらう。なぜなら常識は観念的に個人のうちにあるものでなく国民のうちにあるものであり、非常識であつては国民の協力を得ることができず、その協力なしには如何なる革新も成就されないから。常識を重んずるといふのは国民の力を重んずることである。
常識は或る客観性を持つてゐる。それは実際生活において試験されてきたものであり、広く国民の間で支持されてゐるものであり、それ自身組織的なものであるから。革新家が自分の意見を持つてゐるのは好いことであるが、その意見は絶えず常識と対質して作られたものであることが必要である。
すでに久しく我が国においては種々の革新的意見が現はれてゐるに拘らず、未だ本質的な革新は何も行はれてゐないとすれは、ここに一度常識に還つて考へ直してみることが必要なのではなからうか。国民は革新を熱望してゐるのである、ただそれが非常識であることを好まないのである。常識の効用について反省しなければならぬ。
(五月十七日)