全体主義と心理学



 いつのまにか全体主義といふ言葉が普及し、それが漠然と日本の指導原理であるかの如く考へられるやうになつた。この頃では日本主義そのものも全体主義に吸収されてしまひさうな傾向である。
 全体主義といふ言葉は我が国では一般に極めて曖昧な意味に用ゐられてゐる。シュパン流の普遍主義とナチスの全体主義との区別さへ十分に考へられてゐない。むしろその意味の明確に限定されてゐないことが全体主義といふ言葉の流行の原因となつてゐる。そのうへこの言葉の無雑作な使用には、我が国のインテリゲンチャの政治的教養の欠乏、政治に関する思想上並びに実践上の訓練の不足が見られるやうに思はれる。
 最近、高等学校心理学教授要目改正案をめぐつて起つてゐる紛争の如きも、かやうな欠陥を示す一つの例である。即ち文部省の督学官がゲシュタルト(形態)心理学と全体主義の思想を結び付け「国家のために」といふ理由で、高等学校の教授要目をゲシュタルト心理学の立場から改正しようとしたのに対して、九州帝大を除く全帝大及び官私大が一致結束して反対を唱へてゐると新聞は報じてゐる。
 その間に伝へられる「陰謀」は別にしても、ゲシュタルト心理学が全体主義の政治思想とどれほど密接な関係を有するか、疑問である。ソヴェトでもその唯物弁証法の立場からこの派の心理学を支持したことがあるのを我々は記憶してゐる。そして現にゲシュタルト心理学の有力な代表者たちはユダヤ人であるといふ理由でナチスによつて追放され、今はアメリカにゐるのである。機械論に反対して全体性を強調するといふだけなら、この派の心理学に限らず現代の心理学の大部分がさうであつて、ディルタイの心理学、クリューガーの心理学などを始めヴントの心理学でさへさうであるといひ得るであらう。科学上の全体性の思想が直ちに全体主義の政治思想になり得るものではない。
 しかしまた我々は公平にいつてゲシュタルト心理学の大きな功績を認めねばならぬ。高等学校の心理学をそれだけにするのは偏頗といはねばならぬが、しかしそれを「ユダヤ的」であるといふ口実のもとに排斥するのは、真理を愛する科学者の態度とはいへない。官吏の「陰謀」はどこまでも糾弾さるべきであらうが、それをゲシュタルト心理学に対する政治的攻撃に転ずることはみづから陰謀を行ふことである。
 この事件に見られるのも科学の不当な政治化である。我々はこれを日本文化のために深く憂へるのである。


(三月八日)