確信の問題



 ある科学者の集まりで、もし各国の科学者が今後数年間互にその研究を伏せておくことになつたら、その間に日本の科学者の仕事は西洋の科学者の仕事に勝つであらうかと尋ねたとき、″勝つ″とはつきり答へた者は一人も無かつた、といふことを或る科学者が書いてゐた。私はそれを読んで慄然としたのである。
 問題は確信の問題である。そして私の惧れるのは、今日何等確信のない理想論の行はれる傾向が甚だしくないかといふことである。
 近年一部において「日本学」の建設が唱へられ、荒木文相も過日の帝大総長との懇談会においてそのことを述べたといはれる。わが国の独自の学問が発達するのは固より極めて望ましいことである。しかし日本の学者は自己の良心において真にそれに対する確信を有するのであらうか。支那事変の発展は日本の政治に一つの理想を与へたやうに見える。そしてそれに影響されて文化人の間においても理想論の流行が生じた。理想を説くのは固より善いことであり、今日特に必要なことでもある。しかしそのやうに理想を説く者に果して確信があるのであらうか。
 これまで我が国の文化人には自信が足りなかつたといへるであらう。そのために日本に独自の文化の作られることが阻まれてゐたといふこともあつたであらう。確信は主観的なものであるから無意味であると私は考へない、主観的な確信も大いに必要である。我々は確信をもつて自分の仕事に従はなければならぬ。しかし今日理想を説いてゐる文化人の多くは、ただ政治に追随して物を言つてゐるのであつて自分自身には何の確信も持つてゐないといふことがないであらうか。確信を伴はない理想は理想とはいへないであらう。自己の無確信を蔽ひ隠すために、現実の不安から眼を背けるために、徒らに理想論に耽るといふやうなことであつてばならぬ。誠実であることなしに如何なる真の確信も生じないであらう。今日人々は如何なる過程を経て理想論に達したのであらうか。
 新文化の創造は大言壮語の楽天観ではなく、真摯な文化人の地下室の仕事である。最も社会的な仕事も孤独に堪へ得る魂から生れるのである。時局に協力すると称して安易な気持になることが厳に戒められねばならぬ。


(二月八日)