日本文化の自主性



 日独文化協定の成立は、従来文化的に深い関係にあつた両国にとつて慶賀すべきことである。これによつて我が国が文化の各方面において受ける利益も尠くないであらう。
 一般的にいへは、日独文化協定の成立は文化に対する政治の優位の一つの例にほかならない。現代の特徴に属するかくの如き政治の優位を我々は承認しなければならぬ。しかしかやうに政治の力を承認すれはするだけ、逆に文化が政治に影響すべき必要がいよいよ感ぜられる。もしそれが無力のものであるならば放置してもよい、それが有力なものであればあるだけ、それに対して文化の影響することが必要であり、そのためには文化が自主性を失はないことが大切である。
 この際特に考へねばならぬことはドイツ文化に対する日本文化の自主性である。近年日本主義とか日本精神とかと頻りにいはれてゐるにも拘らず、実際はドイツ模倣の傾向が著しかつたのであるが、こんど日独文化協定の成立によつてその傾向が更に甚だしくなる惧れがないであらうか。かくては日本文化の自主性が奪はれ、それと共に創造性が失はれて「新文化の創造」などあり得ないであらう。
 もとより我々はドイツ文化から学ばねばならぬ。しかしそれは飽くまでも自主的な立場においてでなければならぬ。自主的であることは創造的であるために必要であり、この自主性において我々は単に今日のナチス的文化からのみでなく過去のドイツの全文化から学ぶことを忘れてはならない。外交そのものからいつても、外交は多角的でなければならぬ。この多角性は現にドイツの外交に見られることであつて、一方日独文化協定を結んだドイツは同時に他方独仏不侵共同宣言を行つた。しかるに今日我が国の外交は多角性を失ひ、強ひて自分を窮屈にしてゐるところがないであらうか。外交における自主性と多角性とは矛盾するものでなく、却つて真に自主的な外交にして初めて多角的であることができる。
 文化の自主性についても同様である。日本文化は自主的であることによつて全世界の文化と多角的に交流しなければならぬ。


(十一月二十九日)