思想を超ゆるもの



 今の時代に思想が大切なことは云ふまでもない。思想の必要はどれほど強調されてもなほ足りないであらう。
 然るに凡ての者が思想の重要性を確信するやうになつた今日、今度は逆に思想の限界を考へることが必要になつて来る。今日一種の「思想的」時代が現はれると共に思想の限界についての反省が失はれたといふことがないであらうか。思想の虜になつてしまふことが如何に人間を不安にするかを、我々は例へば現在のスペインにおいて見ることができるであらう。思想が左右に分れて政治的に対立してゐる場合、ひとは思想の限界を忘れて思想の虜になつてしまひ易いのである。
 かくて支那事変にしても、これを単純に「思想戦争」として規定することの危険を知らねばならぬ。この事変は確かに思想戦争の意味を含んでゐる。しかしそれを思想戦争として規定することに急にして思想の限界を考へない場合、種々の危険があるであらう。人間を解放すべき思想が逆に人間にとつて桎梏にならないやうに注意しなければならぬ。
 人間が思想の虜になるといふのは、思想の、従つて知性のためであるよりも、却つて感情の、従つて非思想的なものの力に依るのである。思想の限界を認識させるものは寧ろ知性であり、それ故に思想の限界を認識することはそれ自身思想的なことに属してゐる。かくてまた真に思想を超ゆるものといはれ得るのは単に感情的なものであり得ないであらう。
 思想を超ゆるものといふのは個々の具体的な形である。発明された個々の機械、具体的な技術的形態は、抽象的一般的な科学的理論を超ゆるものである。科学者と発明家との間には理論と形態との差異がある。詩学の規則に通じてゐても、それだけでは藝術家として生きた形象を作ることはできないであらう。もちろん技術的形態も科学的法則を基礎とし、その限りすべての形態は合理的なものである。しかし形態が作られるには理論以上に想像力もしくは構想力が働かねばならぬ。形は具体的なものとしてつねに綜合的なものである。
 今日の問題は、思想や主義であるよりも形態であるといふことができる。政治、経済、文化のすべての方面において新しい形を構想し得る自由な精神が要求されてゐる。原則だけからは形は出て来ない。新時代の思想家にも政治家にも何等か藝術家的なところ、発明家的なところが必要である。理論の虜になつて具体的な形の構想が一層重要な問題であることを忘れてばならぬ。

 

 (十一月二十二日)