理論と行動

 最近私は東京、京都、大阪において多くの青年インテリゲンチャと親しく話す機会をもつた。その時きまつて出た質問は、今度の事変の目的は東洋に新文化を建設することにあると云はれてゐるが、その新しい文化の原理はどのやうなものであるか、それが積極的に示されなければ、インテリゲンチャに向つて能動的になるやうに説いたところで無駄ではないかといふのである。
 この議論は一応尤もである。新しい世界観とか新しい文化とかと既に以前から繰返し叫ばれてゐるにも拘らず、それが体系として具体的に展開されたものに我々は未だ出合はない。なるほど新聞雑誌の上では「劃期的」とか「独創的」とか「体系的」とかと批評される書物も毎月いくつか出てゐるが、果して辞令以上の意味を有するであらうか。体系的といふ言葉は我が国では教科書的に手際よく纏まつてゐるといふほどの意味に用ひられるやうである。劃期的とか独創的とかと称する思想が毎年或ひは毎月いくつか出るといふことはそれむが劃期的でも独創的でもないことを示してゐるのであつて、何が劃期的であり独創的であるかは長い歴史が決定することである。
 言ひ換へると、要求されてゐる新しい世界観、新しい文化の原理は完成した体系としては未だ現はれてゐないのである。哲学はミネルヴァの梟であるとへ−ゲルが云つたやうに、完成した思想体系は一つの時代の終りに近づいて初めて出てくるものである。今日はまさに新しい時代の瑞初に立つてゐるとすれは、完成した思想体系が未だ存在しないのは寧ろ当然であるといはれるであらう。
 それ故に懐疑的で消極的なインテリゲンチャの現在想起すべきことはいはゆる理論と実践との弁証法であつて、理論は行動の発展につれて一歩一歩形成されてゆかねばならぬといふことである。抽象的な可能性において理論を考へてゐる限り、我々は懐疑に止まるか現実の歴史に関係のない形式的な構成に終るのほかないであらう。完成した体系を求めること自体が現在では非歴史的なことであるとも云へる。先づ必要なのは新文化の形成の意慾においてインテリゲンチャが協同するといふことである。
 そして今日の日本が東洋に新文化を建設するといふ極めて大きな使命を有することを考へる場合、政府当局はこのインテリゲンチャの活動に自由を与へるといふ度量を積極的に示さねばならぬであらう。禁圧政策によつては新しい文化の創造といふ大事業は到底考へられないのである。

(十月十一日)