新しい神話
ローゼンベルクは『廿世紀の神話』を書いて、ナチス・ドイツの聖典となつてゐる。今もし日本にかやうな廿世紀の神話が可能であるとすれは、その主題は「大陸」とか「東洋」とかといはれるものであらう。
しかし今日果して大陸とか東洋とかといふものは我々の「廿世紀の神話」として形成されてゐるであらうか。それは確かに一部の人にとつては既に久しく神話の意味を有してゐたであらう。けれども一般の国民にとつては必ずしもさうではないやうに思はれる。そこに、もし欲するならは、思想家や文学者の大きな仕事が残されてゐると云へるであらう。
今の日本には新しい文学が要求されてゐる。そしてそれは普通に「戦争文学」の種類と考へられてゐる。そのやうな戦争文学の作品は既にいくつか戦線から送られて来たし、またそのやうな作品を書くために多数の文士や評論家が戦線へ派遣された。それはもちろん凡て結構なことである。戦つてゐる日本に戦争文学が求められ、また作られるといふのは当然のことである。しかし今日最も要求されてゐるのは単にいはゆる戦争文学でなく、むしろ新しい神話であり、戦争文学そのものも自分のうちに新しい神話を含まねばならぬと考へられるであらう。今度の事変の目的は東洋に新しい秩序を建設することにあるとすれば、戦争文学も単にいはゆる戦争文学に止まらないで、その中に「東洋」の神話が形成されなけれはならないであらう。さう考へるならば、不幸にして今度漢口に従軍することのできなかつた作家も歎くには当らないので、彼等にも極めて大きな課題が与へられてゐるのである。
今日の日本に必要なのは神話でなくて、思想であると云はれるであらう。確かにその通りである。神話と雖も今日においては思想的根柢なしには存在することが不可能である。神話とは思想の一つの存在形態をいふのであつて、思想が客体的認識としてでなく主体的形象として存在する形態である。そして今日東洋といふのは世界史的な行動の主体として呼び掛けられるものであつて、客観的原理としては東洋的なものは固より世界的なものでなければならない。即ち東洋といふ概念はそれ自身のうちに或る神話的なものを含んでゐる。
支那事変が世界史的意義を有すべきものであるとすれば、東洋に新しい神話が生れねばならない。一つの思想が神話として大衆の中に拡がり、その行動の力とならなければならないと云ひ得るであらう。
(十月四日)