淫祠邪教の蔓延
最近また淫祠邪教の蔓延が問題になつてゐる。警視庁特高部の発表に依ると、事変このかた疑似宗教は雨後の筍の如く蔟生して事変前の十倍以上になり、おもて立つたものだけでも二百六十五を数へ、そのほかに祈祷師、巫女の類は数千人に上り、調査も満足にできないやうな状態であつて、その影響下にある民衆は夥しく多数であらうといはれてゐる。それらの疑似宗教は一般国民が無批判であるのにつけ込んで時局を喰ひ物にし、延いては反戦思想の温床ともなる危険性をさへ有するといはれてゐる。
かやうな淫祠邪教は左右両翼の思想とは違つて神懸り的な大衆性を有するだけその蔓延が憂慮されてゐるのである。殊にそれらの最近の活動が主として応召家族を目標としてゐるのは注目すべきことであり、これに対する対策の急務であることを思はせる。
そのやうな対策として先づ必要なのは、国民の生活、とりわけ応召家族の生活に不安のないやうにすることであらう。およそ邪教といふものは現世の物質的利益を約束するものであり、そのために邪教と呼ばれてゐるのであるから、邪教に入るのを防ぐたあには大衆の物質的生活について十分考慮することが肝要である。
次に事変下における邪教の蔓延は国民精神総動員の運動が大衆の中に深く入つてゐないくとを示すものであつて、この運動の方針及び方法について最も真剣に反省せらるべきことを要求してゐるのである。
しかしながら今日邪教の蔓延する心理には、生活の問題、思想の問題以外、もつと人間的なものがあるであらう。戦争は人間的なものを抑圧し、そしてそれは已むを得ぬことであるが、他面それだけまた人々をして深く人間的なものを求めさせるのである。単なる政治思想によつて人間は救はれることもできないし、またほんとに強くなることもできない。この人間心理を理解することが大切であつて、そこに宗教があり、哲学があり、文学があるのである。戦時においても宗教や哲学や文学は固有の任務を有してゐる。
然るに今日の如く宗教がそのやうな本来の面目を忘れて徒らに政治的になつてゐては、邪教がその機に蔓延するのは自然であらう。嘗てあれほど喧しく邪教撲滅を叫んだ宗教が、現在そのことについて殆ど語らないのは不思議である。ただ政治的になることのみが真に国家のために尽す所以ではない。これは宗教に限らず、文学も哲学も今日深く考へてみなけれはならぬことである。
(九月二十日)