天災の教訓

 ことしは天災が多いやうである。尤も今頃には毎年颱風の襲来を受けるのであるが、ことしはそれが特に深く人心に印象されるのは事変中だからであらう。飛行機の襲来に備へる訓練は近来年毎に行はれてゐる。しかるにこの防空演習に対するほどの熱意を政府も国民も天災の防止に示してゐるであらうか。しかも自然の災害に対する予防と戦争の災害に対する予防とは決して無関係ではないのである。
 この間の暴風雨には、東京では水道の水が出なくなる、ラヂオの効力が最も発揮せらるべき時にラヂオが聴かれなくなる、場所によつては数日間電燈がつかなかつた。かやうなことでは、もし万一空襲を受けたとしたら如何であらうか。天災に対する防備を完全にするといふことは戦時の防備を完全にするためにも必要である。このことから考へて、毎年多額の費用をかけて行はれる防空演習が形式的でなく最も実質的なものになることを切望せざるを得ない。陸軍や海軍のみでなく、都市そのものに、国民の各戸に、実質的な防備力が具はるやうにすることが大切である。それには科学的な技術的な設備に対する配慮がもつとなされなければならない。
 暴風雨があればきまつて鉄道が不通になるが、東京市の一地域の如きも、毎年数回きまつて水浸しになる。年々歳々同じことを繰返してゐて殆ど改善されないのである。かやうなことは諦めが好いといふ日本人の性質にも関係するであらうが、ただ諦めて済ますことのできぬ問題である。毎年天災のために蒙る莫大な損害を考へるならば、一時の間に合せでない徹底的な施設が計画的に行はれて然るべきである。
 そして根本においては国民の科学的精神の養成に努めることが、天災の防備に対してのみでなく、戦時の防備に対しても肝要であらう。諦めが好いといふことは日本人の一つの美質に相違ないが、そのために科学的精神が欠乏するやうなことがあつてばならぬ。天災は諦めて済むとしても、戦時にはそれで済むであらうか。科学的な考へ方は人心の不安を無くすることができる。飛行機の襲撃の一つの目的は人心を不安に陥れることにあるといはれてゐるが、その場合の不安を少なくするためにも国民が科学的な考へ方をかねて養つておくことが大切であらう。

 (九月六日)