統制と倫理
先般池田蔵相は木造建築の統制に関して、統制のための統制になつてはならぬと語つた。この非常時に家屋を新築するのは悪いといふことは倫理の問題であつて、経済上その必要が認められない場合法律的に統制することは避くべきであるといふのである。
統制のための統制が善くないことは明かである。統制の不当な行き過ぎは慎まねばならぬ。しかし統制と倫理とは決して無関係ではないであらう。今日もし統制の行き過ぎがあるとすれば、それはまづ役人が統制を「仕事」にするといふことがあるのに依ると云はれてゐる。統制のための統制は「仕事」のための統制である。従つてそこにまづ役人の倫理が問題になるであらう。一般的にいつて、統制の行き過ぎは、統制が倫理化されると共に、倫理がその性質上潔癖になり易く、瑣末主義に陥り易いといふところから生じがちである。直接に経済に関係する事柄以外においては特に統制の行き過ぎが生じ易いのも、そこでは倫理化が一層行はれ易いためである。
しかも今日の状態は経済と倫理とを二元的に考へることを不可能にしてゐる。経済統制は精神動員として行はれつつある。それ故に統制のための統制の弊に陥らないやうにするには、統制の倫理の明瞭に示されることが必要である。経済から抽象して倫理を説くことがなくならねばならないし、その倫理が経済の発達を抑止するやうなものにならないことが肝要である。一般に統制の倫理の何であるかが確立されねばならぬ。
経済と倫理とを二元的に考へることは自由主義時代の思想に過ぎないであらう。現代においては政治と経済とを二元的に考へることができない如く、倫理と経済とを二元的に考へることもできない。しかしまた政治が経済を支配するといつても、政治は経済の法則を無視することができぬやうに、経済が倫理化されるにしても、倫理は経済の法則を無視することができぬ。
事変が終つても自由主義の経済に戻らないことは云ふまでもない。さうであるならば、統制は今日戦争遂行のために必要であると云ふ以上に、統制の倫理の如何なるものであるかが思想的に、原則的に明瞭にされねばならぬ。それは統制の行き過ぎ、経済から抽象された倫理の過重の弊に陥らないために必要である。
(八月三十日)