研究機関への希望

 今度東亜研究所が出来ることになつた。大陸政策とか東洋の新秩序の建設とかといつても、肝腎の調査が不十分であつたり、理論がなかつたりするのでは問題にならぬ。この際東亜研究所の設立を見るに至つたのは喜ばしいことである。
 支那事変以来、この種の支那問題やアジア問題の調査研究の機関が、公けのもの、半ば公けのもの、私的のもの等、俄に多く出来たやうに聞いてゐる。勿論いくら多く出来ても結構なわけであるが、それらの機関相互の間の連絡、提携、更に進んで統合について考へることも必要ではないかと思ふ。そのことは調査や研究を完全にするために必要であるはかりでなく、それらの機関が現在何よりも政策的な問題の研究に従事してゐるらしい事情から考へて、国策の統一を図るためにも必要である。割拠主義は到る処において見られる弊風であるが、それは調査研究の機関にあつては特に避くべきことである。割拠主義は秘密主義、独善主義等、種々の弊害を生ずるのである。
 政策の研究が現在の急務であることは認められる。けれども余りに政策的になると、調査研究の客観性が失はれることになる。大陸の諸問題については性急な政策論に熱中する者が殊に多い今日、必要なのは却つて冷静な、科学的な、理論的な研究である。理論的な研究は直ぐに結論の現はれるものではない。しかし効果を急ぐといふことは従来日本の多くの研究機関に見られた弊風であつて、そのために結局大きな効果が得られない場合が多いのである。結果を急いで基礎的な研究を怠ることのないやうにするのが肝要である。学問の意義がもつと一般に理解されるやうにならねばならぬ。
 もう一つ希望したいことは、研究機関において研究された結果がなるべく多くの人の眼に触れるやうに発表されることである。それがその機関に対する国民の関心をつなぐ所以であると共に、広く批評を求めることは研究の進歩にとつて大切なことである。いつたい、日本の官庁には「秘」と称する文書が多過ぎる。我々の普通に読んでゐる外国書が官庁で翻訳されると「秘」といふ印の捺した文書になつてゐることが屡々ある、と聞くのである。官僚的秘密主義は研究所の場合特にその目的を達する所以でない。
 序に言つて置くならは、国民の誰でもが自由に出入し得る東亜図書館の如きものが設けられることは、大陸に対する国民的な関心と理解とを深める上に必要であらう。

 

 (八月十六日)