民間意見の重要性

 外務省文化事業部では対外文化宣伝の方法を変化し、従来の歌舞伎、活花、茶の湯、能などのいはゆる日本的なものの紹介から転換して、今後は広く「現代日本」の全文化を対象に非常時にふさはしい文化外交を行ふ方針を決定し、その手始めとして航研機の記録映画を宣伝に採用することになつたやうである。
 この転換はもちろん正しく、結構なことである。ただ一つ、我々は当局のその点に気附くことが余りに遅かつたのを遺憾に思ふ。
 すでに数年前、対外文化宣伝の必要が頻りに唱へられ、国際文化振興会などが出来た当時、専らいはゆる日本固有のものを海外に紹介しようとする傾向に対して、現在の日本の生きた文化を紹介すべきであるといふのが民間の意見であり、私の如きも本欄において一再ならずその点に触れたのである。しかるにその意見は全く顧みられないのみか、非国家的思想に基くかのやうにさへ考へられたのであるが、数年後の今日やつとその意見通りになるに至つたといふのは皮肉である。
 しかも新聞紙の伝へるところに依ると、外務省文化事業部をこのやうに転向させたのは、目下我が国に滞在勉強中の各国政府の交換学生であるといふのも、従来の日本の外交振りを思はせるものがある。「日本へ来て何を学ばうと欲するか」との質問に対して、彼等は口をそろへて、「古典日本には関心がない、知りたいのは明治維新以後における現代日本の文化である」と答へたといはれてゐる。実際、これまで海外への宣伝に努力してきたやうなものは、今日の日本自身の大衆にとつても殆ど関係のないものである。かやうな宣伝に対しては国内の大衆も熱意をもつことができず、しかるに文化外交の如きものはいはゆる国民外交として、大衆の支持がなけれは成功し得ないのである。序ながら、これら凡てのことは現在の支那における文化工作に対しても反省を要求することである。
 もとより私は古典日本の重要性を否定するものではない。注意したいのは、日本の古典を今日の立場から如何に摂取するかが、我々自身の文化の問題として完全に解決されることが、その外国への宣伝にとつて前提であるといふことである。
 右の対外文化宣伝の場合は、民間意見の尊重すべきことが明かになつた一つの例に過ぎない。輿論に聴くことが自主的外交にとつて必要であることも明瞭であらう。民間で云はれてゐることを取り上げるのは官吏の権威に関はるといつたやうな気持が少しでもあつてはばならぬ。

(八月九日)