革新の連繋

 この頃の新聞で一等面白いのは本紙の「読者眼」のやうな投書欄である。そこだけが現在多少とも輿論を反映してゐるらしく思はれる。
 この欄に繰返して現はれる読者の意見は、今日革新を論ずる者にみづから革新するところがないといふことである。国民に向つて節約や貯金を説く者が果して国家の金を無駄に使はないやうに心掛けてゐるかといつた意見である。革新は先づ自分から始めよといふのが国民の声である。
 これは単に道徳的な要求として意義を有するのみではない。革新はすべて繋がり合ひ、一つの革新は他の革新を前提とするやうに結び附いてゐる故に、そのことが要求されるのである。革新は全面的に計画的に行はれなければならぬ。
 今度荒木文相は大学の総長や学部長の官選を提唱した。この提唱の当否はここで論じないが、現在の大学に革新の必要なことは我々も認める。文部省が大学の革新を主張することは間違つてゐない。だがその際忘れてならぬことは、文部省自身の革新の必要である。文部省そのものが明朗でないことは久しく評判されてゐることである。文部省がその儘であつて大学教授の身分がそれに左右されることになれば、文相の意図するやうな派閥の打破はできないであらう。革新は大学と文部省と連繋的である。
 文相の一投石によつて大学教授たちの間に大きな波紋が生じでゐるとのことである。それは確かに大学の本質に関する重要な問題である。ただ私がここで問ひたいのは、その問題に対して熱心な教授たちは、例へば先般行はれたいはゆる学生狩りの問題に対して同様の熱心さを示したであらうか。学生も大学の一部であり、学生の問題は大学の問題である。しかるに学生の教育と指導の本質に関するこの重要な問題は警察にまかせて知らぬ顔をしてゐた教授たちが、ひとたび自分の身分に関はる危険のあることになると、俄然熱心になるのは如何なることであらうか。学生の問題と教授の問題とが連繋してゐることは、今や教授諸氏にも多分理解されるに至つたであら
う。革新は同じ思想によつて行はれるのである。
 今日の大学の不幸は、大学自身の革新についてさへ、これを指導する力を有しないことにある。指導性はもはや大学を離れてしまつたやうである。革新の連繋を考へてゆくならば、大学の革新の如きも社会全般の革新なしには不可能であることが分るであらう。


 (八月二日)