「長期建設」
板垣陸相は「長期戦は長期建設である」と云つた。これはなかなか名言であると思ふ。そしてこれは支那に関してのみでなく、日本に就いても云はれ得ることである。支那において長期建設を行ふには、日本の主体的条件が整へられねばならず、そのためには日本においても長期建設の行はれることが必要である。しかもこの建設が革新を意味しなけれはならぬことは、日本においても支那においても同じである。
荒木文相は「五年十年といふ長期に亙つて下駄履きでやつてゆけるか」と云つた。これもなかなか味のある言葉であると思ふ。いつたい、近頃名言はすべて武将の口から出るといふのは、如何なる理由に依るのであらうか。皮革その他の物資の欠乏は優秀な代用品の生産によつて補はれねばならず、そしてそのことは同時に建設的な意味を有することができる。優秀な代用品が作られる場合、それは戦後においても利用されるであらうし、またそれは日本の産業として外国へも輸出され得るであらうし、更にそれは科学理論の革新の契機ともなり得るであらうから。
長期戦が長期建設であるならば何よりも文化が必要である。武力だけでは建設はできない。代用品の発見や発明は科学の力に保たねばならぬ。しかも長期建設には、とりわけ建設が革新を意味する場合、単に科学のみでなく、思想が、その他一切の文化が必要である。思想及び文化の方面においても長期の建設即ち革新が行はれねばならぬ。
長期建設には文化が必要であるといつても、時局を閑却した文化主義に意味があるといふのではない。却つて私の繰返していひたいのは、この時代が日本に課してゐる最も重大な問題と何等かの仕方で真剣に取組むのでなければ、文化そのものの立場から考へても、今日いかなる永続的価値ある文化も生産され得ないといふことである。これはあらゆる文化人の銘記すべきことである。
由来、日本には文化主義とか文化至上主義とかとといふものはなかつたと云はれる。その代りに文化を風流とかあそびとかと考へる伝統は強いのである。これは過去の日本において自然に対する技術的並びに科学的文化の発達しなかつたこととも関係があるであらう。この時局において文化主義の如きものは清算されるにしても、他方文化を風流とかあそびとかと考へるのに類する心理が依然として残存してゐるとすれは、これは更に困るであらう。長期建設の唱へられる今日、何が知識階級に革新の気魄を失はせてゐるか、深く反省されねばならぬ。
(七月十九日)