自然と人為



 先日文学界の同人で都会と農村といふ問題について話し合つたとき、日本にはまだほんとの都
会文学は出てゐないのではないかといふ話であつた。都会人といはれる者も大抵農村出身であり、
自分がさうでないにしてもせいぜい親の代に農村から都会に移つてきたに過ぎない。そこで、そ
れらの都会人の中には、一方都会の好いものがまだ十分身についてをらず、他方農村の好いもの
も多く失つてゐるといふやうな中途半端な人間が尠くないやうに思はれる。現在の日本の文化に
おいてこの種の過渡的な性質をいろいろの方面で見出すことができる。
 この過渡的な文化から何処へ行くかが問題である。農村的なものはすべて封建的なものである
とすれば、問題は簡単である。そして農村的なものは資本主義的なものへ必ず移つてゆくとすれ
ば、問題は簡単である。封建的なものは克服されねばならないであらうし、資本主義は農村の好
いものを破壊せずにはおかないであらうから。文化の発達によつて農村の好いものが失はれない
ためには、資本主義の問題を完全に解決することが必要である。
 日本には昔から西洋においてのやうに周囲に城壁をめぐらした都会といふものがなく、農村と
都会とは融合的に発達してきた。これはたしかに日本文化の好いところであつたと云へるであら
う。その世界観においても日本人は、自然と人為、自然と文化の間に鋭い対立を考へないで、自
然を愛し自然に親しんで生活するといふのが特色であつた。
 しかしこの特色も現在においては破壊されてゐる。先達ての関西の水害の如きも、自然を粗末
にした報いであると云はれてゐる。このやうに自然に対する伝統的な態度が失はれる一方、なほ
残存してゐる自然に対する親和感から自然の好意に頼り過ぎ、自然に対して科学と技術とをもつ
て対するといふ態度がまだ十分発達してゐない。そこに過渡的な文化といふものの故障が現はれ、
先達てのやうな水害を生ずるのである。
 かやうな過渡的な文化の欠陥を克服し、しかも伝統的な、自然と文化、都会と農村の社会とい
ふ好いものを生かしてゆくことが大切である。そしてこれは資本主義を超えた高次の文化の理念
を実現することによつて初めて可能になる。資本主義の問題を完全に解決することなしには、日
本固有の美しいものも保存されず発達させられないのである。

(七月十二日)