統制の社会的意義



 街ではいま中元の売出しが行はれてゐる。百貨店を覗いてみると、国民精神総動員と書いた幕と並んで、中元大売出しと記した多くの幕が賑かに張られてゐる。国民精神総動員とは物を買はないことであり、中元の贈答など一切廃止のことと考へてゐた者は、その光景に或る矛盾を感ずるであらう。政府の消費節約の宣伝も、中元といふ社会的慣習の前には無力であるかのやうである。贈答は制限されたにしても、中元そのものは、金のある人間によつていはゆる買溜めに利用される危険さへあるやうに見える。
 私は商人の立場を無視して中元の売出しに反対しようといふのではない。それは客に対する商人のサーヴィスの意味をもつてゐるのであらう。尤も、凡てこのことが今日においては国民精神総動員の名において行はれる傾向があるのは、警戒すべきである。私が云ひたいのは、個人の生活は、その消費の面においても、社会的に規定されてゐるといふことである。それは中元といふやうな社会的慣習に影響されてゐる。社会学者ゾンバルトは人間の種々の贅沢が資本主義と密接に関係してゐることを歴史的に明かにしてゐるが、個人の消費生活は社会の経済制度に制約されるところが尠くないのである。
 消費統制といつても、あれを廃めよ、これを廃めよといふ風に、個々の思ひ附きを述べるだけでは効果が乏しいであらう。消費統制は生活の合理化となつて積極的意義を見出さなけれはならず、そのためには全体の社会生活の根本に立入つて組織的に革新が行はれなければならぬ。
 経済統制の拡大と強化とにつれて、経済警察の制度が設けられるとのことである。これは社会の現状から見て極めて必要なことに相違ない。けれども既に人々の指摘してゐる如く、それが弱い者いぢめにならないやうに注意することが最も大切であつて、そのためには経済警察の任に当る者が現在の社会的経済的機構について根本的な知識を有することが必要である。もしこの知識に基いて取締りが徹底してゆくならば、現在の社会の欠陥もこれによつて矯正されるに至るであらう。かくしてこそ統制は革新的意義を獲得することができるのであり、そのことが期待されてゐるのである。


 (七月五日)