世界的日本人
荒木文相は世界的日本人を作れと訓示した。学生主事諸氏に果してその意味が徹底したかどうか、疑はしい。文部省の吏僚諸氏にも、学校の校長諸先生にも、文相の趣旨が理解されるかどうか、心細い。それほど現在の日本の教育は世界的人間を作ることから離れてゐるのである。文相のいふ意味がどうであるにしても、それを自分の見識で独創的に解釈して賛成に移すやうな役人や教師が果して幾許存在するか、疑問である。それほど現在の日本の教育は貧困を極めてゐるのである。
支那事変は世界的日本人の必要を感ぜしめるに至つた。或ひは支那事変は如何に日本に世界的人間が欠乏してゐるかを知らしめるに至つた。世界的人間の必要は今後ますます大きくなるであらう。教育の根本的革新が要求されてゐる。ところで近年教育界においても革新が叫ばれてゐるが、その革新なるものは世界的日本人を作るのとは逆の方向において考へられてゐはしないか。欧化時代として現に盛んに非難されてゐる明治時代には却つて世界的日本人が存在した。世界的日本人は世界的思想を有するものでなければならぬ。
もとより今日、大アジア主義の如きものも唱へられてゐる。しかしそれは、日本といふ一つの国の拡大としてアジアを考へようとするのであつて、更に高い次元から日本を考へようとするものではない。日本から世界を見るに止まらず、また世界から日本を見ることが大切である。単に「世界的日本人」になるといふのでなく、「日本的世界人」になることが必要なのである。
これまで「大陸的人間」といふものは、豪放とか豪胆とかといふ情意的方面からのみ考へられて、その知性においては寧ろ甚だ局限された人間であるのがつねであつた。今日、従来のいはゆる支那通に科学的な支那学者が代らねばならぬやうに、世界的日本人として現はるべきものは何よりもその知性において世界的な人間でなければならない。
国粋主義的傾向につれて、インテリゲンチャはコスモポリタンであるとして非難されてゐたのであるが、世界的日本人の必要が知られるに従つて、そのインテリゲンチャが日本にとつて重要な意義を有することが次第に分つてくるであらう。しかし日本のインテリゲンチャはこれまで内地を離れることを嫌ふ傾向が甚だしかつた。この傾向をなくして優秀なインテリゲンチャが大陸へ出掛けることが今後真の日支提携の基礎となるのである。
(六月二十八日)