学生狩り論争
早稲田署管内の「学生狩り」がきつかけとなつて、学生の抗議、警視庁及び学校当局の見解の発表があり、一種の論争が行はれてゐる。我々から見れば、この論争は、過般の政友会総裁問題と同様、この非常時局に似つかぬ一風景である。或ひはかかる風景が諸所に展開されるところに、現在日本が非常時にある一つの証拠が見られるやうである。
学生の行動にやたらに干渉するといふことは、あの思想事件の頻発以来、警察において馴致された風潮である。これに対して学校当局は、その頃黙過して来たのみでなく、自己自身も次第に警察化したのである。教育の警察化は今日に至るまで存続してゐる傾向であり、そのために我が国の教育は甚だしく正常性を失つてゐる。
学生のうちに時局認識に欠けてゐる者の存在することは、警視庁あたりで云つてゐる通りであらう。しかしそれに就いては為政者の側にも責任があるのであつて、時局の真相を知らせないでゐて、ただ観念的に時局認識を説いたところで、学生に自覚を促すことは不可能である。
この際学校当局は、またもし警察が何等かの教育的責任を感ずるならば警察も、教育の積極化を図るべきである。教育は単なる取締りではない。喫茶店や麻雀グラブから学生を追払つたにしても、下宿屋でごろごろしてゐるといふやうなのでは困るであらう。教育を積極化するためには先づ学生に対して正直に時局の真相を知らせることが肝要である。
次にこの際学生の行動に自由を認めて、彼等の間に支那問題研究会、国際情勢研究会、時局懇談会などといつた会が作られ、学生自身の自由な研究と討議とを通じて、時局に対する認識と思想とを獲得するやうにしなければならぬ。単に「自粛自戒」といつた消極的態度では足りない。会合は自発的なものであつて御用団体風のものであつてはならぬ。何かの会合を持たうとすれば、すぐに疑ひの眼で見て禁圧するといふ傾向はよくない。学校の警察化の弊を一掃して学生を十分に信頼し、今日の歴史の要求する認識と思想とを真剣に探索するといふ風潮を広く学生の間に喚び起すことが大切であり、それには現在殆ど禁止同様の状態にある集合の自由を与へることが必要である。
今日インテリゲンチャを満足させるやうな思想がないと云ふに止まつてゐてばならぬ。あちらでもこちらでも思想探求の風潮が澎湃として起つて来るならは、その中におのづから指導的思想が形をとつて現はれて来るのである。
(六月二十一日)