革新の基準



 革新といふ言葉の濫用が一部において感ぜられてゐる。何でもが無雑作に革新といはれて、革新の基準は何処にあるのかが次第に曖昧になりつつある。革新といつても「またか」と国民が考へるやうになつては憂ふべきことである。
 革新の名目で徒らに役所を拡張しようとしたり、革新を看板にして何か仕事を売り込まうとしたりする者が存在しないか。かやうな者があるとすれば、彼等こそ最も時局認識に欠けてゐると云はねばならぬ。この非常時には一銭でも国費を無駄に使はないといふ覚悟がなけれは、革新などできるものではない。手弁当で働かうといふ者が続々と出てくるやうになつたとき初めて真の革新は行はれるであらう。
 このやうな誠意の問題は別にして、更に重要なのは、何が革新の客観的な基準であるかといふことである。
 これまで西洋崇拝、欧米依存の傾向が余りに甚だしかつたのに対して、日本の、東洋の独自性を主張することは、革新的であると考へられる。かやうに主として民族的な立場を重視するものを、私は革新の客間的な見方と名附けよう。従来の思想にこの客間的な見方が欠けてゐたとすれば、これを強調するのは革新の一つの基準と考へることができる。
 しかしながら革新の客間的な見方と共に時間的な見方がなければならぬ。言ひ換へると、我々は世界史の如何なる時期に立つてゐるのであるかを省みることが必要である。この世界史的な問題は資本主義の問題に集中する。資本主義の諸弊害を如何に克服するかがこの場合革新の基準である。
 最近の歴史において革新といふ言葉が盛んに用ひられるやうになつたのは、あの二・二六事件以来のことであるが、そのとき革新の要点は資本主義に向けられてゐた。それだからこの風潮を迎へて、資本主義政党といはれたものでさへもが資本主義の是正を唱へるに至つたのを我々は記憶してゐる。この事実の想起されることが必要であらう。
 今日、革新といふことはただ客間的な見方に求められて時間的な見方が次第に忘れられつつあるのでなければ幸ひである。すべての統制が革新的であるとは云へない。統制にも種々の統制がある。革新の時間的な基準は支那事変の発展と共にいよいよ問題になつてくるであらうし、この点において日本独特の原理と方法とが生れるとき日本主義は世界史的な思想となり得るのである。

(六月七日)