遅れる政治



 徐州陥落によつて日本の軍事行動は一段と進んだ。これに対して日本の政治は、内政において、外交において、遅れてゐるといふことがありはしないであらうか。政治が軍事行動に遅れるやうなことがあつてはならない。
 有能な人間は無難な人間ではない、誉められもするが誹られもするのが常である。そこで無難な人間、どこからも非難の出ないやうな人間を採らうとすれば、平凡な、積極的に悪いところもない代り積極的に善いところもない人間が選ばれることになる。それは官界、教育界等、各方面において見られる一般的な現象である。この頃「大正型」といふ言葉が使はれてゐるが、大正型とは私に言はせるとかやうに無難なことはかり求める傾向のことである。
 政治も孤立した事実ではない。今日の政治のつまらなさも、ただ無難なことを求めるのに起因することが多いやうである。そしてこの傾向は今日いはゆる国内相剋を避ける必要からさらに助長されてゐる。しかも現在の如く極端に反動的な傾向の存在する場合、これに引摺られて政治は益々つまらなくならざるを得ない。例へば最近北支へ派遣された文化使節は、一新聞の評論子をして旧い文化国へ送るにふさはしい旧い顔触れだと皮肉らしめたやうなものであるが、それも無難を求めた結果であらう。支那の知識階級は日本の文化の現状について日本人と同じやうに詳しく、恐らく日本の一部官僚諸氏よりも一層詳しく知つてゐるのだ。この事実を忘れないことが対支文化工作のすべての場合に必要である。
 無用の国内相剋が避けられねばならぬことは云ふまでもない。しかしあらゆる場合に摩擦を避けようとすることは何等の革新も行はないことである。今日、一方において無難を求める大正型政治が依然として濃厚であると共に、他方において東洋型大言壮語の復興が見られるのも困つたものである。実際、現代のやうな「政治的」時代にあつてはとかく大言壮語が喜ばれるのであるが、しかしかやうな「東洋的」大言壮語によつて日本の大衆はもはや踊らないであらう。大言壮語は決して昭和型ではあり得ない。今の日本が要求してゐるのは真の勇気を有し責任感を有する政治家である。
 国内相剋は近代的な方法をもつて止揚されねばならぬ。即ちそれは輿論の形成に依らねばならぬ。そしてこれがまた革新の基礎でもある。真の政治家は大衆の中から輿論を形成することを知つてゐる。輿論の形成を怠つてゐるならば、日本の政治は重大な危機に会することになるかも知れない。


(五月二十四日)