行動の哲学



 先日或る人が訪ねて来て、日本精神について、これがオーソドックス(正統)であるといふやうな本を知らないかと問はれて、実は困つてしまつたのである。さやうなものはまだ出てゐないのではないかと思ふ。
 客が帰つてから私は考へた。日本精神については近年無数に書かれてゐる。日本固有のものは何かといふことについても繰返し論じられてきた。ただその多くは日本精神とか日本の特殊性とかについて解釈を与へてゐるのみである。しかるに解釈の哲学と行動の哲学とは異らねばならぬ。「哲学者は世界をただ種々に解釈してきただけだ、世界を変化することが問題であらうに」といふ言葉の意味を、この場合深く考へてみる必要がある。
 解釈の哲学は過去から作られる。ひとは過去を考察することによつて日本的なものに種々の解釈を与へてゐる。しかしかやうな解釈の哲学が行動の哲学と異ることは、日本の特殊性についてあれほど頻りに語られてゐるにも拘らず、今日現実に行動されてゐることは、例へばナチス・ドイツの模倣に過ぎないものが極めて多いではないかといふ批評が絶えず出てゐるところからも知られるであらう。
 最近我々がしはしば耳にするやうになづたのは、「革新」といふ言葉が濫用されてゐるといふ国民の声である。何でもただ革新とさへいへば好いやうに考へられ、それがどのやうな目標に向つて、誰のために行はれようとしてゐるのか明かでない。革新といふ美名のもとに一部の人間、一部の階級の利益が求められるといふやうなことがあつてはならない。かやうに革新の意味が曖昧になり、革新の基準が必要になつてゐるやうに思はれるのも、行動の哲学が明瞭でないからである。
 行動の哲学はつねに現在から出発する。過去の解釈はこれにとつて一つの材料となるに過ぎぬ。日本精神といつてもこの場合、現在この国に生活してゐる国民大衆が現実に持つてゐる意識がそれなのである。彼等の感覚や意慾を一つの理想に向つて組織することが大切である。例へば現代文学について殆ど知らない国文学者が、今日の青年の心理について何も理解しない老人が、日本精神を説いたところで、それが行動の哲学となり得るであらうか。行動の哲学とは大衆によつて納得され、情熱をもつて愛される思想である。
 今日、日本は極めて重大な行動に向つて踏み出してゐる。このとき解釈の哲学のみはびこつて行動の哲学がないとすれは、危いといはねばならぬ。


(五月十日)