合理性と積極性


 消費節約や貯蓄奨励、国民精神総動員もいよいよ心のみでなく物を対象とするやうになつた。これは当然のことである。しかるに物が重要な問題になつて来ると共に、従来この動員の指導思想が陥りがちであつた単なる精神主義に対しても反省を加へねばならなくなつて来る。また心は非合理的なものによつて動かすことができるとしても、物は極めて合理的であるのに注意することが肝要である。
 江戸つ子は宵越しの金を使はないといふやうに、日本人には金銭の問題に関して合理的であることを喜ばない気風が残つてゐる。金銀について合理的であることは唯物主義であるかのやうに顰蹙される。同じ都会人でも、贅沢な消費の中心の如く思はれてゐるパリの人間、殊にその婦人は貯蓄心をもつて有名である。消費節約や貯蓄を行ふためには合理的精神を養ふことが大切である。しかるに心の問題については非合理主義を鼓吹しながら物の問題についてのみ合理的にさせようといふのは不可能を求めるに近いであらう。
 消費節約とか貯蓄とかといふ言葉は消極的なことに思はれるのが普通である。大いに稼いで大いに使ふといふのが積極的であらう。日本人は生活に対して消極的であるといはれてゐるが、それが我々の永続的な国民性であるかどうかは疑問であり、殊に大陸に発展しようといふのなら何事にも大いに積極的でなけれはならぬ筈である。しかるに消費節約や貯蓄といふやうなものに積極性を持たせるのは生活の合理化にほかならない。
 今日の如く消費節約や貯蓄の必要が起らなかつたとしても、我々の生活には合理化さるべきものが尠くないと思ふ。問題はパーマネントの禁止といふやうなことにあるのではない。現代の風俗の全体、生活の全体が一定の理想に基いて組織的に合理化されることが大切なのであつて、それには経済学者の頭のみでなく、藝術家の感覚や哲学者の智慧が必要である。消費節約や貯蓄奨励はこのやうに積極的に一定の文化理念をもつた新生活運動或ひは新文化連動として指導されねばならない。今日の政治家や官僚に果してこの用意があるか。
 すべて消極的なことは非合理的になり易い。言論統制の如きも、ただ弾圧を事とするやうな消極的手段ではとかく非合理的になる。合理的になることによつて消極から積極へ転ずることがあらゆる方面において要求されてゐる。


(四月二十六日)